マーシュランド

2014年 スペイン
 
監督:アルベルト・ロドリゲス
出演:ラウール・アレバロ、ハピエル・ゲティエレス
 
※ネタバレ有り
 
非常によくできた、しかし、後味の悪い映画であった。
 
舞台は、フランコ独裁体制が終わって間もない1980年のスペインの田舎町。
二人の少女の惨殺事件を追う二人の刑事、ペドロとフアンが主人公。
ペドロは正義感が強くフアンは経験豊富な強者だ。
少女の遺体には、凄惨な拷問による損傷が有り、
変質的な残忍さがうかがわれる。
やがて他の少女も犠牲になっていることが明らかになり
連続事件であることが分かってくる。
 
それを追う二人の前に、現れる数々の断片。
スクリューに切断された足首だけの死体、麻薬の密売、妖しげな占い師、
町の有力者も関与しているらしい少女姦淫。
淀んだ田舎町から逃げ出したいと考える少女たちと
そこにつけこむ少女嗜好者。
 
二人は、やがて一人の男を見つけ、
湿地帯での大捕物のすえ、犯人を殺し事件は解決を見る。
 
その手柄により、ペドロはマドリードへと栄転する事が決まり、
フアンは自分のことのようにそれを喜ぶ。
しかし、祝うために繰り出したバーで、情報を得ていた記者がペドロにある事実を告げる。二人の少女のレイプ現場を撮影した写真には、ある男が映っていたのだが、結局顔は判別できなかったと。しかし、その男の腕には相棒のフアンと同じ腕時計が。そして、追い打ちをかけるように、フアンは、フランコ独裁政権の秘密警察でカラスと恐れられた人間であり、100人以上を殺し、拷問が得意だったと。
 
事件の直接的な実行犯は死んだが、その黒幕は
実はフアンだったのでは、というところで話は終わる。
 
この映画を観て、最初に思いだしたのは
ツインピークスの町には、なにか人間の力の及ばない絶対的な悪があり、
それにとりつかれたように殺人が起こるのだが、
最後には、FBIのクーパー捜査官もそれに取り込まれてしまう
という、こちらもなかなか後味の悪い話だった。
この映画にも、そんな悪の気配が立ちこめている。
 
タイトルのマーシュランドとは、湿地帯のこと。
映画全体が、湿地帯から立ち上る瘴気に覆われているようでもあるが、
それはまた、人智の及ばない悪のようでもある。
映画では、黒幕はフアンであると明確にはしないが、
その悪にとりこまれた人間は、フアンだけでなく町の有力者もそうかもしれず、
おそらく、それは長きにわたりスペインを独裁支配したフランコ政権そのもの
淀みでもあるのではないだろうか。
 
その歴史を共有していないので、想像するしかないが
スペインの人たちが観たら、きっと日本人の我々が観るよりも
もっと真に迫るサムシングがあるのではないかと思う。
 
スペインの映画賞を総なめにしたというのもうなづける出来映え。
後味は悪いが、いい映画です。

ダゲレオタイプの女

2016年 フランス/ベルギー/日本
 
監督;黒沢清
出演:ダハール・ラヒム、コンスタンス・ルソー他
 
※ネタバレ有り
 
黒沢監督の新作は、オールフランス人俳優で
フランス人スタッフ、フランスロケと
完全にフランス映画なのだが、
その中身はかなり日本映画的に思える。
 
いってみれば、日本の幽霊譚を
フランス人が少々ぎこちなく作りました、という感じ。
まあ、ぎこちなく、ではあるのだが
ぎこちなく落ち着きの悪い部分と
とても雰囲気のある素敵な部分とが混在しているという言い方が正しいか。
 
ストーリーは、幽霊とのラブストーリーで
牡丹灯籠を思い出したが、そこまでおどろおどろしくはない。
 
いろいろな批評を見ると、テーマがぼけているとか、
うすぼんやりしているというような評が散見されるが
その感想もわからなくはない。
確かに、なんで等身大の銀板写真なのか、とか
その写真に妻や娘を筋弛緩剤を使ってまで、永遠の美を定着させる、
ということの業が描き尽くされたかといえばそうでもないし、
マリーとジャンのラブストーリーも、そこまでの絶望はないようにも思う。
 
なにもかもが曖昧で、はかない。
しかし、そういう映画なのだと思う。
 
銀板写真にこだわる芸術家気質の写真家ステファン、
彼はかつて妻をモデルに写真を撮っていたのだが、
妻の死後は娘のマリーをモデルに撮影を続けている。
この銀板写真、ピンホールカメラに毛の生えたようなもので、
とにかく、露光時間が長い。早くて数十分、長くて2時間ほどもかかるのだ。
だから、モデル撮影は大変だ、その間動くこともできず
専用の拘禁具で固定されるという、かなりの苦行。
そのことでマリーは、精神的にも物理的にも父親に縛り付けられている。
そこに登場するのが、新しく助手として雇われたジャン。
ジャンは、だんだんとマリーに好意を持ち、彼女を救い出そうとする。
 
しかし、それはかなわず、マリーは死んでしまう。
そして幽霊としてジャンの目の前に現れる。
だが、ジャンは、マリーが生きていると信じ、彼女とつかの間の幸せな生活を送る。
死んでからも、マリーは自分を想うジャンの愛に応えようとする。
しかし、マリーがなにを望んでいるのかは、よく分からない。
ただ、ジャンといることだけで幸せだといい、全てが受動的だ。
その受動的で何を考えているのか、よく分からないところが実に幽霊らしいと思う。
存在しているのかどうかも、コミュニケーションがとれるのかどうかも、
よく分からない異質な存在、ただ、愛だけがある。
 
だから、束縛からの解放というようなテーマは、かなり二の次で、
マリーの愛だけが、この映画の真実なのではないか。
誰が誰を殺したのかも、誰が生きているのかも曖昧で存在しているかどうかも
よく分からない中で、ただマリーの曖昧な愛だけが存在している。
 
ジャンは、たとえ破滅してもこれだけマリーから愛されたら幸せだったんじゃないか、
と考えると、なんだやっぱり牡丹灯籠だったんじゃないかと、附に落ちる。
 
とにかく、マリー役の女優さんが最高です。
彼女を見るだけでも一見の価値ありでしょう。

彼は秘密の女ともだち

2014年 フランス
 
出演:アナイス・ドゥムース、ロマン・デュリス
 
※ネタバレ有り
 
クレールとローラは、小学生の時からの大親友。親友のまま、成長し、それぞれに結婚して、幸せな家庭を持った。
しかし、子供が出来たばかりのローラは、不慮の事故で死んでしまう。
 
その子の名付け親でもあるクレールは、ある日、様子を見にローラの家を訪ねる。
しかし、そこで見たのは、女装し母親を演じて赤ん坊を抱いている、夫のダビッドの姿だった。そういう性癖があるのだと、告白するダビッドを、クレールは変態だと非難するのだが、翌日、ダビッドから話をしたいと連絡を受け、再び彼の家を訪問する。というところから、二人の関係は徐々に変わっていく。
 
最初は、女装癖を持ったローラの夫とローラの友達、というだけの関係で、
女装癖に嫌悪感を持つクレールだが、まるで女性のように考えふるまうダビッドを見て、だんだんとその女装を面白がるようになっていく。
そして、女性的な感性を持つダビッドと、まるで女同士のようにつきあえることに、楽しみを見いだしていく。
そのことを、クレールは夫のジルには内緒で、女装したダビッドのことは、女友達のビルジニアということにしてしまう。
それは、たまたまのことであるが、名前をつけたことにより
親友の夫のダビッドと女装したビルジニアというふたつの人格は強化され
二人は、秘密を共有する仲間へとなっていく。
 
ダビッドにとって、自分の秘密を明かせるのはクレールだけであり、
かけがえのない存在だ、そしてクレールにとってもその欲望と秘密を受け入れることが快感となってくる。そして二人の関係は深まり、お互いがお互いにとって、必要な存在であることに気づくようになる。
しかし、そこまでは、クレールにとって、あくまでビルジニアがその相手だったはずなのだが、やがて、クレールは、女装した女友達としてのビルジニアも男性のダビッドも実は切り離すことのできない、同一人格であることに気づいてしまう。
ダビッドは、女装癖はあっても、ゲイではなく、女性と愛し合う人間だ。
 
悩むクレール。そして最後に選択するのは?
というのが、あらすじ。
 
おそらく、ダビッドの女装癖がなければ
クレールは平穏にジルと暮らしたはず。
しかし、女装癖をもったダビッドの登場でクレールは知ってしまったのだ。
本当に必要としあえる関係を持つことこそが人生の歓びだと。
そして、そのためには身勝手になることも肯定できると。
 
という、オゾンにしてはかなり直球な映画なんだけど
個人的には、そのことに共感できるかといわれれば、ちょっとクエスチョン。
欲望を肯定するよりも、むしろ、自分の欲望に気づきつつも、それを押し殺してストイックに生きるなんて方に共感してしまいがちではあるし。最後に残るのは、残されたクレールの夫のジルがかわいそう、という思いだったりする。
 
なので、この映画の評価は、結構微妙だったりします。
オゾン、好きなんですけどね。

フィッツカラルド

1982年 西ドイツ・ペルー

監督:ヴェルナー・ヘルツォーク
出演:クラウス・キンスキー、クラウディア・カルディナーレほか

※ネタバレ有り

大きな蒸気船で山越えする、というプロットから
難事業に挑む男の苦悩を描く重厚な映画を想像していたのだが、
そういう悲壮感漂う暗い話ではなかった。

南米ペルーにオペラハウスを建設しようと奔走する男、フィッツカラルドの話なのだが、このフィッツカラルド、一度鉄道事業で失敗していることからも分かるようにあまり商売の才覚はない。しかし、無類のオペラ好きの彼は、失敗に懲りずに
なんとオペラハウスを南米の奥地に建設しようという計画を企てる。
そして、その資金を作るために、目をつけたのが当時ブームだった、ゴム生産。
といっても、もう近辺の開発はすすんでいるので、
誰も手をつけなかった交通機関のない山奥のゴムを採取するべく、
船で山越えという、途方もないことを計画する。
しかしこれが、かなりずさんな思いつきレベルの計画だ。
まず、スタッフを集めるのだが、誰にもその計画を話していない。
そして、船が上流に行くにつれ、周りには首狩り族の太鼓の音が響き始め
「上流に向かうなんて聞いてないよ」という人夫たちは逃げはじめる。
誰もいなくなり、これまでか、というところで、
首狩り族の迷信がフィッツカラルドに味方し、彼らが手伝ってくれる事になる。
という落語のような展開で、なんとか計画を遂行する。
まあ、いってみれば「ほら吹き男爵の大冒険」みたいな話なのだ、これが。

このフィッツカラルドの人物造形が、この映画の大きなポイント。
夢想家で、大きなことを計画するのだが、ことごとく失敗、性格は弱いようでいて、無鉄砲な行動力だけはあり、いつの間にか周りがひっぱられている。どういうわけか憎めないキャラクターで女にはもてる、という、ある種の男の典型。
狂気にとりつかれた。というような紹介も目にするが、
狂気にとりつかれたのは、こんな映画を撮ろうと考えた監督の方で
フィッツカラルドは狂気というよりは、脳天気だろうと思う。
演じたのは、監督お気に入りの、クラウス・キンスキー。
いかにも苦悩が似合いそうな渋い風貌ながら脳天気という、
なんとも複雑な男を見事に演じている。

そして話は、山越えには成功したものの、ゴムの採取運搬という計画自体は失敗に終わる。それで、悲壮感にうちひしがれると思いきや、ぼろぼろの船を買い戻すという助け船が現れ、ラストでは、その船の上でオペラコンサートを開きご満悦、という、結局ハッピーエンドなんかい、という結末。
まあでも、ほらふき男爵なんだから、らしい終わり方といえば、らしい気もする。

ちなみに、森に囲まれた大河を進む蒸気船の上でオペラを流すシーンとか、
ハイライトである山越えとか、映像的な見所はいっぱい。
観ておいて損のない映画でしょう。

悪魔のいけにえ

1974年 アメリカ
 
 
※ネタバレあり
 
 
いままで、スプラッターということで
なんとなく敬遠していた本作であるが、
観てみると、これがスプラッターではないんですね
それどころか、ホラーなのか?というくらい
通常のホラーとは、趣の異なる映画であった。
 
いや、もちろん、若者たち一行が気の狂った一家に殺される
というプロットだけをみれば、王道のホラーなのだが、
いわゆるホラーとは、感触が微妙に違う。
 
でも、怖く無いかと言えば、そうでもなく、特に前半は、怖い。
ヒッチハイクで、乗せてしまった変な男は、
いきなり自分の手をナイフで切り始めるし、空き家の不気味な様子とか、
一家の暮らす家の玄関に歯が落ちている所など怖いことこの上ない。
 
そして、この映画のハイライトのひとつ、最初の殺人シーン。
誰かいないかと家の中にはいる若者。音がするドアに近づいた、次の瞬間ドアは開き
ハンマーを持ったレザーフェイスが若者の頭を砕く、そして部屋の中に引きずり込み
ドアがしまる。この間、数秒。
あっけにとられる、とはこのこと。怖がっている暇もない。
 
ここから先、若者がどんどん殺されるわけなのだが、
同時に殺人鬼の正体が、頭のおかしい一家だということがわかってくる。
頭のおかしい一家は、行動原理が不明で、なんのために殺すのかがよくわからない。
別に殺人嗜好症というわけでもなく、悪魔崇拝というわけでもなさそうだ。
ただ、単純に何を考えているのか分からない、それだけだ。
 
そして、頭のおかしいことをのぞけば、ただのおっさんだ。
決して運動神経がいいわけでも、超常能力をもっているわけでもない。
だから、チェーンソーでドアを破るのももたもたするし、
逃げた女の子を追いかけて、二階から飛び降りることもしないし、
結局女の子を捕まえることもできない。
 
というようなことが明らかになるにつれ、怖さは薄れてくる。
展開はスリリングで、映画としてつまらないわけではないのだが、
通常のホラー映画としてのサスペンスや、不気味さというものとは、決定的に違うのだ。
おそらく、それは、邪悪さの有無ということでは、ないかと思う。
レザーフェイスも、他の家族もあまり邪悪さを感じない。
むしろ、妙に人間的でコミカルに見えることさえる。
いってみれば、ここには闇がない。
おそらく一番怖いものであろう、人間の心の奥底にうごめく闇がないのだ。
だから、ここにあるのは、頭のおかしい殺人鬼の行動を記録したリアルな映像だ。
その情緒の一切を排したハードボイルドな映像は、
逆に新しく、いま観てこそスタイリッシュであるように思う。

 

暗殺の森

1970年 イタリア/フランス/西ドイツ
 
出演:ジャン=ルイ・トランティニャン、ドミク・サンダ他
 
※ネタバレ有り
 
名匠ベルトリッチの1970年作品。
 
類い希なる映像美の中で描かれる
優柔不断な男のみじめさ、というのがこの映画の構図だろうか。
 
話は、第二次大戦中、ファシストに加担した主人公クレリチが
自分の出世のために、かつての恩師や惚れた女性を見殺しにするという話。
 
暗殺シーンで助けを求める女性に顔を横に向けたまま、
なにもしないクレリチを見て、護衛役の男がいう
「なにが嫌いだといって、卑怯なやつが一番許せない」と。
しかし、クレリチは、それでも堅い表情のままみじろぎひとつしない。
アイヒマン裁判を論じたハンナ・アーレントが、「凡庸な悪」というような言い方をしているが、この主人公も、優柔不断でなにもせず、まわりに流されることで悪に加担するという、まさに凡庸な悪を体現している。
 
そして、その凡庸な悪を際立たせているのが、登場する女性の美しさと、類い希なる映像美だ。
 
光と影のコントラストを強調した映像や、
ローンアングルでの大量の枯れ葉がつぎからつぎと舞い散るシーンや
厨房裏でのいつまでも揺れ続ける電灯のもとでの会話シーンなどの作為が誇張されたシーン、また、広大な精神病院や、ファシストの本部、
暗殺シーンでの白樺の森など、ロケーションのすばらしさ
また、有名なダンスシーン等々、そのすばらしさは数え上げれば切りが無い。
 
最後、ファシズムが崩壊し、民衆がファシストを糾弾しながら行進する中、
ひとり取り残される主人公の惨めさは、
その光と影のコントラストのある映像のなかで際立ってくる。
 
暗殺の森」というのは邦題で、原題は「順応者」とか「同調者」というような意味合いらしい。日本的にいうなら「日和見主義者」というところか。
本作の場合は、邦題の方がはるかにいい。

サンドラの週末

2014年 ベルギー/フランス/イタリア

※ネタバレ有り
 
「社員のボーナス」VS「一人の社員の復職」、というのが、この映画の構図。
病気療養から復職を目指す女性社員サンドラだが、社長は彼女を首にして、他の社員にボーナスを出すというプランを社員に持ちかける。
なんとか、その決定を先送りにし、社員による投票まで持ち込んだサンドラであるのだが、まあ、ちょっと考えれば分かるように、最初からサンドラには勝ち目のない戦いだ。いってみれば、復職という自分の幸せのために
ボーナスという他の社員の幸せを、捨ててほしいということになってしまう。
他の社員も、サンドラの復職は望んでいても
自分がもらうボーナスは、また別の話だろう、ということになる。
本来なら、経営者VS社員となるところが社員VS社員となってしまった、
その構図になってしまった時点で負けている。
 
しかし、サンドラは背に腹はかえられず、夫の強力な鼓舞を受けて、月朝の投票の前に、みんなを説得しようと土日をかけてみんなのもとを訪ねるのだ。
 
ボーナスの額は1000ユーロ、同僚社員は全部で16人、
そこで過半数をとれば勝ちというルールである。
ちなみに、1000ユーロというと今のレートだと約12万円くらい。
たいした金額ではない。しかし、それで家の改築の足しにしようとを考えている者もいれば、生活が苦しく、通常勤務以外にアルバイトをしている者もいる。
しかし、サンドラだって、解雇となれば、今のアパートには住めず
公共住宅で暮らさざるを得なくなる。
 
そんな、ギリギリな者どうし、ボーナスをあきらめて貰う説得は、
当然のことながら一筋縄ではいかない。
中には、サンドラに投票するといってくれる人はいるのだが、
罵倒されることもあれば、それがきっかけで家族の諍いが起こる場合もある。
そして、サンドラは本当に自分の行動が正しいのか分からなくなってくる。
夫はサンドラをはげまし、説得に同行し、正しいことをしているのだと鼓舞するのだが、その夫の言動すら、本当に自分の事を考えたものなのか、
それとも単に家計のことだけを考えているのか、も疑心暗鬼状態だ。
そして、多量の睡眠薬を飲むサンドラ。
 
しかし、そこに夫とけんかの末、サンドラを支持することを決心した
女性の同僚が現れ、サンドラは、もう一度戦うことを決意する。
 
サンドラが復職を願うことには義はあるが
その代償としてボーナスを諦めてもらう説得に義があるのかは、正直微妙だ。
少なくとも日本人にはなじまないことは確実だろう。
 
そして、月曜日、投票日だ。
結果は、賛成反対が同数に終わる。過半数をとれなかったサンドラの負けだ。
その結果を見た社長がある提案をする。
契約社員の契約が満了したら、サンドラを代わりに復職させようと。
しかし、契約社員の実情も知っているサンドラは
その話を蹴り、会社を後にする。
 
サンドラは、職を失ったが、しかし、だからといって敗北したわけではない。
少なくとも、困難な状況に負けずに、最後まで自分を貫き通すことができたことに満足する。だから、社長の話にのって、プライドを捨てることもしなかった。
最後に、サンドラが夫に言う、「私たち、頑張ったよね」と。
 
でも、考えてみれば、この結末以外には
ありえなかったのだろうと思う。
もし、サンドラが過半数をとっていたら、
それは、他の同僚の幸せを犠牲にして、自分の正義を貫いたということで
正直、共感できるかは怪しい。
 
サンドラに与えられたミッションの設定自体は、
ある種の寓話というかファンタジーであるとは思うが、
スリリングな展開と後味のいい終わり方は、好感が持てる。