うーん、ご都合主義の結末か、それとも大人の解決か?    「パリ3区の遺産相続人」

2015年 フランス
 
※ネタバレ有り
 
 
主人公のジムは、さえない無職の57歳の男で
離婚を繰り返し、なにかも上手くいかない人生の敗北者だ。
その彼が遺産相続で受け継いだのは、パリにある高級アパートメント。
期待してその物件を見に来たジムだが、
しかし、そこには、老婦人マティルドが暮らしていて、しかも、それはヴィアジェの物件だった、というところから物語ははじまる。
ヴィアジェというのはフランス独特の不動産の販売方法で、売り主が死ぬまで、買い主が年金というカタチで購入代金を払い続けるというもの。
要は分割払いなのだが、支払い期限が売り主が死ぬまでというところがミソだ。
大体が、身寄りのない老人の売り主が多いらしいのだが、
売り主にとっては、自分が死ぬまで年金を貰い続けることができ、買い主にとっては、その代わり通常よりも格安で購入できるというメリットがある。
契約は死ぬまでなので、売り主が早く亡くなれば、買い主は大儲けで、
逆に長生きすると、買い主は損を見るという、死亡時期によって得か損か決まるというかなり罰当たりな制度ではある。
 
だから、ジムが相続した物件は、所有権は持っているものの、まだ自分の家ではなく、しかもマティルドの年金を払い続けなければならいないという、やっかいなものだったというわけだ。
そして、そのアパートには、行き遅れたマティルドの娘クロエも暮らしているので、ジムが自由に暮らせるわけではなく、いさかいがたえない。
 
所有権を持っているジムはさっさと売却しようと画策するのだが、
だんだんと、マティルドとジムの関係が明らかになってくる。
 
かつてジムの父親とマティルドが不倫関係にあり、
そのため、自分が父親とうまくいかなかったこと、そして母親が自殺してしまったこと。マティルドの娘クロエもまた、幼い頃から母親の不倫を知っており家族が上手くいってなかったこと。そのせいで、うまく生きることが出来ず結婚することもできなかったこと。ジムもクロエも、不倫のせいで自分たちの人生がうまくいかなかったと感じていること。
 
似たような境遇のジムとクロエは、だんだんと共感し親密な関係になっていき
そして、母親であるマティルドを糾弾するようになる。
そんなことは甘えで、うまくいかなかったのはあなたたちの問題だというマティルドだが説得力はなく、ジムの母親が自殺したということを知り倒れてしまう。
 
最初は、小洒落たヒューマンドラマという体だったのが、
このあたりから、だんだんとどろどろになってくる。
精神的に自立成長できない、いい歳をした子供VS
不倫をしてお互いの家族を不幸にしてしまった年老いた母親という構図で
あれ、なんか、シリアスドラマだったのかという雰囲気。
 
しかし、物語はその不倫の責任と子供たちがちゃんとした大人として成長できなかったことの関係に踏み込むことなく、雨降って地固まる的に3人で家族として暮らす、つまり、ジムとクロエが結婚しマティルドの面倒を見る、という選択をするところで終わる。
ハッピーエンドといえばハッピーエンドなのだが、でも、それは、傷ついた人生を歩んできたジムとクロエが救済されたわけではなく、
また、その苦悩を乗り越えて成長したということでもない。
ただ手近な幸せをつかんだという風に見える。
 
映画を見ている側としては、そうか解決させないのか、という思いを持つが
でも、現実ってそんなものかも、という思いもある。
 
自分も含め、だれもがきっちりと物事を解決しながら生きてるわけじゃない。
なんとなく、手頃な解決や手頃な幸せを選びながら、生きてるわけだし、それが、一概に悪いわけでもない。過去は過去にすぎないし、今、みんなが幸せになれるなら安易な解決でもいいじゃないかと。たとえ、問題を先延ばしするだけだったとしても。
 
なんてことを、この映画を観ながら考えてしまいました。
それが監督の狙いかどうかは不明ですが。
 

ドント・ブリーズ

2016年 アメリカ
 
製作:サム・ライミ
出演:スティーブンラング、ジェーン・レビ
 
 
デトロイトで暮らすうらぶれた若い男女3人が主人公。
彼らは、強盗を働き金を稼いでいる。
 
その3人が、次のターゲットとして選んだ家は、盲目の老人がいるだけという
赤子の手をひねるよりも簡単なミッションだったはずなのだが
それがとんでもない誤算。
このじじいが強いのなんの。戸締まりの厳重な家は、
あっというまに逃げることの出来ない密室となり
盲目のじじいに有利な暗闇状況とどう猛な番犬の存在もあり
簡単なミッションは、絶望的に困難なミッションになってしまう。
さあ、彼らはお金を盗み出し、逃げることができるのかというお話。
 
一般的なホラー映画だと、ちゃらちゃらした若者がキャンプに遊びに来て
そこで、殺人鬼に一人一人殺されていく、というのがよくある定番。
ちゃらちゃらしたという時点で、かなり反感を買っているので
見る側としても、半分自業自得だろう的な思いで見る訳だが、
本作は、強盗というさらに自業自得な状況。
 
しかし、彼らにも貧困問題やら家庭問題やらといろいろあり
主人公の女の子のロッキーは、幼い妹を底辺な家庭から救い出したいと考えていて
一分の理がないわけでもない。
 
なので、見る側の心情としては、五分五分というところなのだが、
このじじいが盲目のくせに聴覚、嗅覚をフルに使い、えげつなく強い。
逃げだそうと必死な若者の先手先手をとり、攻撃してくるさまは痛快なくらいだ。
しかし、後半じじいの秘密が明らかになると状況は一変し、
なんの落ち度もなかった、ただ強いだけのじじいが、得体の知れない悪役へと変貌する。
 
ここからは、攻守がめまぐるしく入れ替わるサドンデスなバトルへと突入する。
殺されたかと思えばさにあらず、やっつけたかと思えばさにあらず
まさにジェットコースターのごとく、ラストへと息もつかせぬ怒濤の展開、
あっという間の88分。
 
ホラーという触れ込みだが、どちらかといえばパニックサスペンス。
怖いというほど怖くはないが、プロットが秀逸でとてもよくできた映画だった。
映画館を出たところで、高校生くらいの男の子たちが
「じじい、怖ええ!」と盛り上がっていたのが微笑ましかったです。

あの日のように抱きしめて

2014年 ドイツ

監督:クリスティアン・ペツォールト
出演:ニーナ・ホス他

※ネタバレ有り

てっきり、この監督さん女性だと思ってました。
前作の「東ベルリンから来た女」もそうだったけど、
でてくる女性がとても誠実で、強くて、すごく女性的な感性な気がしたのだが。
どちらもニーナ・ホスという同じ女優さんで、
調べると前作がこの監督で5回目の主演とか出ていたので、もしかしたら、
この監督ニーナ・ホスの映画しか撮っていないのかもしれない。

特定の俳優さんとばかり仕事をする監督さんというのも結構いるので
それほど変わってはいないのかもしれないけれど、ここまでというのは珍しいかも。で、監督が男性となるとどういう関係なのだろうと考えてしまいます。
脚本も、常にニーナ・ホスさん想定の宛書きなんでしょうか。
まあでも、映画の出来から考えたら非常にリスペクトしているものと推測します。

さて、本作は第二次大戦終戦直後のドイツで
顔に大けがをおいながら、収容所から奇跡的に生還したユダヤ人歌手ネリーが主人公。手術によって顔が変わってしまった彼女が
元の夫とどういう関係を作るのかという物語。
妻は死んだものと信じている夫は、ネリーが妻だとは気づかず、
雰囲気が似ている彼女を相棒に妻の遺産をだまし取ろうと考える。

ネリーは、夫に対する愛情から、自分が妻だとは明かさずにその計画に乗る。
最初は、まるでつきあい始めのようで、浮き立つネリーなのだが、
だんだんと、夫の裏切りによって自分が収容所に送られたことが
分かってくるとともに、その愛情や浮き立つ心は醒めていく。
そして、自分の逮捕直前に夫から離婚手続きがされていたことを知り、
それは決定的となる。

このあたりの、二人の描き方がとっても素敵です。
最初、顔に傷を負い痛々しくも、
夫との久々の邂逅にうきうきするネリーは初々しく、可愛らしい。
いつ夫が本人だと気づくだろうと楽しみにする気持ちや
気づいてくれないもどかしさにすねてみたり。
それが、傷が癒えるとともに、痛々しさは消え自信と美貌が復活し、
逆に夫の方は、裏切りの事実が明らかになり
卑屈で弱い人間であることが見えてくる。

だんだんと立場は逆転し、
ラストでは、ネリーが劇的に決別を告げるのだが
その真実が明らかになるシーンは、
ちょっと類を見ないほど、鮮やかで痛快だ。
痛快なのだが、ちょっとほろ苦い。

この素晴らしいラストのためなら
顔が変わっても仕草とか背格好で妻だと気づくだろう
というようなつっこみは、どうでもいいんじゃないかと思わせる。

マーシュランド

2014年 スペイン
 
監督:アルベルト・ロドリゲス
出演:ラウール・アレバロ、ハピエル・ゲティエレス
 
※ネタバレ有り
 
非常によくできた、しかし、後味の悪い映画であった。
 
舞台は、フランコ独裁体制が終わって間もない1980年のスペインの田舎町。
二人の少女の惨殺事件を追う二人の刑事、ペドロとフアンが主人公。
ペドロは正義感が強くフアンは経験豊富な強者だ。
少女の遺体には、凄惨な拷問による損傷が有り、
変質的な残忍さがうかがわれる。
やがて他の少女も犠牲になっていることが明らかになり
連続事件であることが分かってくる。
 
それを追う二人の前に、現れる数々の断片。
スクリューに切断された足首だけの死体、麻薬の密売、妖しげな占い師、
町の有力者も関与しているらしい少女姦淫。
淀んだ田舎町から逃げ出したいと考える少女たちと
そこにつけこむ少女嗜好者。
 
二人は、やがて一人の男を見つけ、
湿地帯での大捕物のすえ、犯人を殺し事件は解決を見る。
 
その手柄により、ペドロはマドリードへと栄転する事が決まり、
フアンは自分のことのようにそれを喜ぶ。
しかし、祝うために繰り出したバーで、情報を得ていた記者がペドロにある事実を告げる。二人の少女のレイプ現場を撮影した写真には、ある男が映っていたのだが、結局顔は判別できなかったと。しかし、その男の腕には相棒のフアンと同じ腕時計が。そして、追い打ちをかけるように、フアンは、フランコ独裁政権の秘密警察でカラスと恐れられた人間であり、100人以上を殺し、拷問が得意だったと。
 
事件の直接的な実行犯は死んだが、その黒幕は
実はフアンだったのでは、というところで話は終わる。
 
この映画を観て、最初に思いだしたのは
ツインピークスの町には、なにか人間の力の及ばない絶対的な悪があり、
それにとりつかれたように殺人が起こるのだが、
最後には、FBIのクーパー捜査官もそれに取り込まれてしまう
という、こちらもなかなか後味の悪い話だった。
この映画にも、そんな悪の気配が立ちこめている。
 
タイトルのマーシュランドとは、湿地帯のこと。
映画全体が、湿地帯から立ち上る瘴気に覆われているようでもあるが、
それはまた、人智の及ばない悪のようでもある。
映画では、黒幕はフアンであると明確にはしないが、
その悪にとりこまれた人間は、フアンだけでなく町の有力者もそうかもしれず、
おそらく、それは長きにわたりスペインを独裁支配したフランコ政権そのもの
淀みでもあるのではないだろうか。
 
その歴史を共有していないので、想像するしかないが
スペインの人たちが観たら、きっと日本人の我々が観るよりも
もっと真に迫るサムシングがあるのではないかと思う。
 
スペインの映画賞を総なめにしたというのもうなづける出来映え。
後味は悪いが、いい映画です。

ダゲレオタイプの女

2016年 フランス/ベルギー/日本
 
監督;黒沢清
出演:ダハール・ラヒム、コンスタンス・ルソー他
 
※ネタバレ有り
 
黒沢監督の新作は、オールフランス人俳優で
フランス人スタッフ、フランスロケと
完全にフランス映画なのだが、
その中身はかなり日本映画的に思える。
 
いってみれば、日本の幽霊譚を
フランス人が少々ぎこちなく作りました、という感じ。
まあ、ぎこちなく、ではあるのだが
ぎこちなく落ち着きの悪い部分と
とても雰囲気のある素敵な部分とが混在しているという言い方が正しいか。
 
ストーリーは、幽霊とのラブストーリーで
牡丹灯籠を思い出したが、そこまでおどろおどろしくはない。
 
いろいろな批評を見ると、テーマがぼけているとか、
うすぼんやりしているというような評が散見されるが
その感想もわからなくはない。
確かに、なんで等身大の銀板写真なのか、とか
その写真に妻や娘を筋弛緩剤を使ってまで、永遠の美を定着させる、
ということの業が描き尽くされたかといえばそうでもないし、
マリーとジャンのラブストーリーも、そこまでの絶望はないようにも思う。
 
なにもかもが曖昧で、はかない。
しかし、そういう映画なのだと思う。
 
銀板写真にこだわる芸術家気質の写真家ステファン、
彼はかつて妻をモデルに写真を撮っていたのだが、
妻の死後は娘のマリーをモデルに撮影を続けている。
この銀板写真、ピンホールカメラに毛の生えたようなもので、
とにかく、露光時間が長い。早くて数十分、長くて2時間ほどもかかるのだ。
だから、モデル撮影は大変だ、その間動くこともできず
専用の拘禁具で固定されるという、かなりの苦行。
そのことでマリーは、精神的にも物理的にも父親に縛り付けられている。
そこに登場するのが、新しく助手として雇われたジャン。
ジャンは、だんだんとマリーに好意を持ち、彼女を救い出そうとする。
 
しかし、それはかなわず、マリーは死んでしまう。
そして幽霊としてジャンの目の前に現れる。
だが、ジャンは、マリーが生きていると信じ、彼女とつかの間の幸せな生活を送る。
死んでからも、マリーは自分を想うジャンの愛に応えようとする。
しかし、マリーがなにを望んでいるのかは、よく分からない。
ただ、ジャンといることだけで幸せだといい、全てが受動的だ。
その受動的で何を考えているのか、よく分からないところが実に幽霊らしいと思う。
存在しているのかどうかも、コミュニケーションがとれるのかどうかも、
よく分からない異質な存在、ただ、愛だけがある。
 
だから、束縛からの解放というようなテーマは、かなり二の次で、
マリーの愛だけが、この映画の真実なのではないか。
誰が誰を殺したのかも、誰が生きているのかも曖昧で存在しているかどうかも
よく分からない中で、ただマリーの曖昧な愛だけが存在している。
 
ジャンは、たとえ破滅してもこれだけマリーから愛されたら幸せだったんじゃないか、
と考えると、なんだやっぱり牡丹灯籠だったんじゃないかと、附に落ちる。
 
とにかく、マリー役の女優さんが最高です。
彼女を見るだけでも一見の価値ありでしょう。

彼は秘密の女ともだち

2014年 フランス
 
出演:アナイス・ドゥムース、ロマン・デュリス
 
※ネタバレ有り
 
クレールとローラは、小学生の時からの大親友。親友のまま、成長し、それぞれに結婚して、幸せな家庭を持った。
しかし、子供が出来たばかりのローラは、不慮の事故で死んでしまう。
 
その子の名付け親でもあるクレールは、ある日、様子を見にローラの家を訪ねる。
しかし、そこで見たのは、女装し母親を演じて赤ん坊を抱いている、夫のダビッドの姿だった。そういう性癖があるのだと、告白するダビッドを、クレールは変態だと非難するのだが、翌日、ダビッドから話をしたいと連絡を受け、再び彼の家を訪問する。というところから、二人の関係は徐々に変わっていく。
 
最初は、女装癖を持ったローラの夫とローラの友達、というだけの関係で、
女装癖に嫌悪感を持つクレールだが、まるで女性のように考えふるまうダビッドを見て、だんだんとその女装を面白がるようになっていく。
そして、女性的な感性を持つダビッドと、まるで女同士のようにつきあえることに、楽しみを見いだしていく。
そのことを、クレールは夫のジルには内緒で、女装したダビッドのことは、女友達のビルジニアということにしてしまう。
それは、たまたまのことであるが、名前をつけたことにより
親友の夫のダビッドと女装したビルジニアというふたつの人格は強化され
二人は、秘密を共有する仲間へとなっていく。
 
ダビッドにとって、自分の秘密を明かせるのはクレールだけであり、
かけがえのない存在だ、そしてクレールにとってもその欲望と秘密を受け入れることが快感となってくる。そして二人の関係は深まり、お互いがお互いにとって、必要な存在であることに気づくようになる。
しかし、そこまでは、クレールにとって、あくまでビルジニアがその相手だったはずなのだが、やがて、クレールは、女装した女友達としてのビルジニアも男性のダビッドも実は切り離すことのできない、同一人格であることに気づいてしまう。
ダビッドは、女装癖はあっても、ゲイではなく、女性と愛し合う人間だ。
 
悩むクレール。そして最後に選択するのは?
というのが、あらすじ。
 
おそらく、ダビッドの女装癖がなければ
クレールは平穏にジルと暮らしたはず。
しかし、女装癖をもったダビッドの登場でクレールは知ってしまったのだ。
本当に必要としあえる関係を持つことこそが人生の歓びだと。
そして、そのためには身勝手になることも肯定できると。
 
という、オゾンにしてはかなり直球な映画なんだけど
個人的には、そのことに共感できるかといわれれば、ちょっとクエスチョン。
欲望を肯定するよりも、むしろ、自分の欲望に気づきつつも、それを押し殺してストイックに生きるなんて方に共感してしまいがちではあるし。最後に残るのは、残されたクレールの夫のジルがかわいそう、という思いだったりする。
 
なので、この映画の評価は、結構微妙だったりします。
オゾン、好きなんですけどね。

フィッツカラルド

1982年 西ドイツ・ペルー

監督:ヴェルナー・ヘルツォーク
出演:クラウス・キンスキー、クラウディア・カルディナーレほか

※ネタバレ有り

大きな蒸気船で山越えする、というプロットから
難事業に挑む男の苦悩を描く重厚な映画を想像していたのだが、
そういう悲壮感漂う暗い話ではなかった。

南米ペルーにオペラハウスを建設しようと奔走する男、フィッツカラルドの話なのだが、このフィッツカラルド、一度鉄道事業で失敗していることからも分かるようにあまり商売の才覚はない。しかし、無類のオペラ好きの彼は、失敗に懲りずに
なんとオペラハウスを南米の奥地に建設しようという計画を企てる。
そして、その資金を作るために、目をつけたのが当時ブームだった、ゴム生産。
といっても、もう近辺の開発はすすんでいるので、
誰も手をつけなかった交通機関のない山奥のゴムを採取するべく、
船で山越えという、途方もないことを計画する。
しかしこれが、かなりずさんな思いつきレベルの計画だ。
まず、スタッフを集めるのだが、誰にもその計画を話していない。
そして、船が上流に行くにつれ、周りには首狩り族の太鼓の音が響き始め
「上流に向かうなんて聞いてないよ」という人夫たちは逃げはじめる。
誰もいなくなり、これまでか、というところで、
首狩り族の迷信がフィッツカラルドに味方し、彼らが手伝ってくれる事になる。
という落語のような展開で、なんとか計画を遂行する。
まあ、いってみれば「ほら吹き男爵の大冒険」みたいな話なのだ、これが。

このフィッツカラルドの人物造形が、この映画の大きなポイント。
夢想家で、大きなことを計画するのだが、ことごとく失敗、性格は弱いようでいて、無鉄砲な行動力だけはあり、いつの間にか周りがひっぱられている。どういうわけか憎めないキャラクターで女にはもてる、という、ある種の男の典型。
狂気にとりつかれた。というような紹介も目にするが、
狂気にとりつかれたのは、こんな映画を撮ろうと考えた監督の方で
フィッツカラルドは狂気というよりは、脳天気だろうと思う。
演じたのは、監督お気に入りの、クラウス・キンスキー。
いかにも苦悩が似合いそうな渋い風貌ながら脳天気という、
なんとも複雑な男を見事に演じている。

そして話は、山越えには成功したものの、ゴムの採取運搬という計画自体は失敗に終わる。それで、悲壮感にうちひしがれると思いきや、ぼろぼろの船を買い戻すという助け船が現れ、ラストでは、その船の上でオペラコンサートを開きご満悦、という、結局ハッピーエンドなんかい、という結末。
まあでも、ほらふき男爵なんだから、らしい終わり方といえば、らしい気もする。

ちなみに、森に囲まれた大河を進む蒸気船の上でオペラを流すシーンとか、
ハイライトである山越えとか、映像的な見所はいっぱい。
観ておいて損のない映画でしょう。