このろくでもない、愛すべき世界。             「君とボクの虹色の世界」

2005年 アメリカ
監督:ミランダ・ジュライ
出演:ミランダ・ジュライ、他

※ネタバレ有り

小説家でもある、ミランダ・ジュライの監督作品。
カンヌでカメラドールを受賞している。

本作は、監督本人が演じる不器用な主人公のラブストーリーを軸に
その周りで起こる様々な人間模様を描く群像劇になっている。

とにかく主人公の不器用な姿が心に残る。
ちょっと気になっている靴屋の店員にアプローチをしたいのだが、
スマートにはできずに、まるで不審者、ストーカーのように挙動不審だ。
帰りを待ち伏せしたことは見え見えなのだが、
何気ない風を装って、帰り道で声をかける。
そして、図々しく車に乗り込もうとするのだが、拒絶されてしまう。

だけど、この人は落ち込まずに、何度も店を訪れてはトライする。
そして、部屋で、一人より二人の方が絶対楽しいのに、ともだえる。


かなり、空回りするタイプで、やることなすことみんなずれている。
でも、彼女の行動は、愛することを肯定し、世界に対する信頼にあふれているので、そのポジティブさは、決して不快にはならない。
そんな、彼女のキャラクターががこの映画を魅力的なものにしている。
 
ミランダ・ジュライは、「ロイ・スパイヴィ」という短編小説を読んで以来のファンなのだが、その印象から、もっと都会的でスマートな人を想像していたので、この不器用さはちょっと意外。実際の彼女がどうなのか、気になるところ。
 
そして映画に登場する周りの人間も、誰も彼もみな、不器用でじたばたしている。
どっちが、フ◎ラがうまいのかと友達と張り合う女子高生の二人組とか
6歳の男の子とかわしたエロチャットを、大人の男と勘違いする女性とか。
きっと、女子高生も6歳の子供も勘違いする女性も、
みんなミランダ・ジュライの分身なんだろうね。
 
創造するということ、そして生きることは、
かっこわるくてじたばたすることなんだと気づかされる。
前向きなパワーにあふれてます。

衝撃のラスト12分・・・。で、結局なんだったんだ? 「FAKE」

 2016年 日本
監督:森 達也
出演:佐村河内守、他
 
※ネタバレ有り
 
 
もう、2年になるんですかね。
事件の記憶も既に朧気であるが、佐村河内氏へのインタビューを中心に
事件の真相を追ったドキュメンタリー映画
 
 映画は、大きく3つのパートに別れている。
最初のパートは、佐村河内氏に寄り添い、世の中の一方的な見方を
「詐欺師といわれるけれど、そうでもないかもしれないよ」と見る人に問いかける部分。
映画は「感音性難聴」という診断書を提示し、全く聞こえないわけではないけれど
言葉は聞き取りづらい、ということを説明し、障害を持つ少女との交流を映し出し、
そして何より献身的な奥さんの姿を見せていく。
新垣氏がテレビのバラエティ番組に出演し、まるでタレントのようにふるまうのを見て
黙り込む佐村河内氏の表情も、なかなかくるものがある。
聞こえるかどうかも、単なる指示なのか共作なのかどうかも、
白か黒かという明快な二元論では語れないという、ここでの主張は、一定の説得力を持っている気にもなってくる。
ここは、「佐村河内=悪、新垣=善」という世の中の一方的なイメージに疑念を呈すパートでも有り、おそらく、監督の森達也氏が佐村河内氏と信頼関係を築くというパートでもあるのだろうと思う。
 
しかし、その次のパートでその流れは変わる。
海外メディアの取材のシーンだ。
 
「なぜ1?年間、作曲法を学ぼうとしなかったのか?」
「指示書は作曲ではない。音源はないのか?」
「ピアノを弾くところを見せてくれないか?」
「なぜ家に楽器がないのか?」
という、至極まっとうな質問に対し、佐村河内氏は全く答えることができない。
そして、楽器のないことに対し、「部屋が狭いから」というのだ。
 
このパートで、やっぱり佐村河内氏は音楽家じゃ、ないんだね、となる。
まあ、もともと指示書を渡していただけというのは、既に公表していることではあるが
こうやって理詰めで確認していくと、それが身も蓋もなく明らかになってくる。
そして、そこに、おいうちをかけるように監督はいう。
「あなた音楽が好きなんでしょう。だったら、作りましょうよ、音楽。」
 
そして最後のパート、ここが衝撃の12分といわれている部分、佐村河内氏が新曲を作るパートだ。
新たにシンセを購入したと連絡を受けた監督が、行ってみると
シンセを前に曲を作る佐村河内氏がいる。
この場面を観ると、上手くはないが、それなりにキーボードを演奏する事が出来るのだと分かる。新曲は、メインのメロディはあらかたできあがっていて、
アレンジの詰め作業をおこなっているところだ。
そして、曲は完成し、奥さんと監督の前で披露される。
曲は、よくいえば、ドラマチック、聴く人によっては、
感動的でいいという人もいるかも、というような大仰な音楽。
 
ただ、プロの作品かといわれれば、どうだろうという印象。
この程度の作曲ができたからといって特に大きな驚きはない。
ああ、このくらいはできるんだね、という感じ。
 
しかし、披露が終わった佐村河内氏に対して監督は、
曲の感想を言うでもなく、創作のプロセスを尋ねるわけでもなくこう言う。
「いまぼくに何か隠していることはありませんか」と。
そして、その質問に対して、答えられずにつまる佐村河内氏のアップで映画は終わる。
 
この質問の意図はなんなのだろう。
そして、この映画の意図はどこにあったのだろうと、思う。
 
今回、新曲作成のプロセスは映されていない。
だから、実は誰かに依頼して作っているのかもしれない。
観てない以上、そうではないと言うことはできないし、そうだともいえない。
 
なぜ、その期間、撮影ができていないかと言うことに対して
後のインタビューで監督はこんなことを言っている。
「曲を作ると言ってから、何でかは覚えていないんですが僕が頭にきて、
撮影に行かない時期があった」と。そして、それは痛恨のミスだと。
 
しかし、本当にそうなのだろうか。
むしろ、曲を作ることをけしかけた上で、そこをあえて曖昧にしたかったのではないか。
監督にとって、結局、佐村河内氏が作曲できようができまいが、どうでもよかったのではないかと。
 
監督が描きたかったのは、そういう真実ではなかったのではないか、
じゃあ、いったい、何を描きたかったのか?
そんなことがぐるぐるする映画でした。
 
 

失ってからはじまる人生の再発見。            「永い言い訳」 西川美和

西川美和の「永い言い訳」であるが、映画ではなく本の方。

妻が突然のバス事故で亡くなるという悲劇に見舞われた男の物語。
主人公は、小説家、衣笠幸夫。
イケメンで、タレント作家としてもそれなりに売れっ子だ。
しかし、最近は妻への愛情も醒め、出版社の女性と不倫関係にある。
事故の知らせを聞くも、悲しむことも出来ず
気持ちの落ち着けどころを見つけることができない。

罪悪感を抱けばよいのか、それとももう終わっていたのだと開き直ればよいのか
そもそも、なぜ妻と距離ができてしまったのかが、分からない。
なにかきっかけがあったのかなかったのか、それが自分のせいだったのか、
妻のせいだったのかも分からず、ただ、心の中で右往左往する。
そして、迷走する。

そこに現れた、同じ事故で妻を亡くした大宮陽一。
長距離トラックの運転手をしながら
まだ小さい子供たちとの暮らしに必死に奮闘している。
妻同士が友人だったことも有り、連絡してきたのだが、
陽一は妻を亡くしたショックから立ち直る事ができない。
そのストレートな感情に、幸夫は困惑する。
しかし、陽一の長男、中学受験を目指す真平に、なんとなく親近感を持った幸夫は
彼らの家族のサポートすることになる。
そして、彼らとの生活を通して、幸夫は新しい自分を発見していく。

自分の気持ちに正直になろう、とはよくいうことであるが
はたして自分の正直な気持ちなどというものは存在するのだろうか。
そんなものは、ただ、揺れ動く瞬間のできごとにしか過ぎず、
不確定性原理のように、これが自分の気持ちだと思った次の瞬間には
すでに変わってしまっている、いつまでたっても捉えることの出来ない、
そんなもののような気がする。

だから、自分の気持ちに正直になるとは、
自分はこの気持ちなのだと信じ、それとともに生きていくという決意なのではないか。
その決意すらも、しかし、確固たるというものでもない。なんとなく、そのポジションが居心地がいいということに、ふと気がつく、という程度のもの。


この小説は、解決も出口も存在しない迷路の片隅に
自分の居場所らしきものを、見つけることができるかどうか、そんな話のように思える。

しかし映画のサイトを見ると、「かつてないラブストーリー」とあり、
しばし、そうなのだろうかと考えてはみたが、
これをラブストーリーと呼ぶかどうかは、私にはよく分からなかった。

小説を読みながら、どういうキャスティングなのだろうと考えていたのだが、
幸夫役が本木雅弘、陽一役が竹原ピストル、ということを知り
「おおそうか、竹原ピストルか!」と、納得した。
本木雅弘は、どうなんだろうという感じであるが、そのうち映画も観てみたい。

ユーモラスな人間ドラマの裏にある、死の気配。      「秋日和」

1960年 日本
監督:小津安二郎
出演:原節子司葉子佐田啓二佐分利信岡田茉莉子

※ネタバレ有り

小津が描くのは、親からこどもへと家族がつながっていく物語。
そこでの、ちょっとした行き違いや変わっていくことへの畏れ。
ある部分を取り出せば、家族の崩壊かもしれないし
それは同時に新しい家族が生まれるということかもしれない。

本作も、そんな小津の世界が描かれる。

夫に先立たれた母親と、
その母親を残して嫁に行けるかという娘の物語。
母親を原節子、娘を司葉子が演じている。

亡くなった夫の悪友連中は、24歳になる娘を心配し、
なんとか心残りなく嫁にやろうといろいろ画策する。
娘に出来のいい部下を紹介したり、それでも娘が母親を気にしているとみるや
母親に悪友の一人をくっつけようとしたり、そこに岡田茉莉子演じる娘の友人も絡み、さまざまな企みが、ユーモラスなコメディタッチで描かれていく。

最後には、娘は紹介された男性と結婚することになるのだが、
母親は、再婚をせずに一人で暮らすという決断をする。

この小津の作った世界は、思いやりと愛情にあふれている。
誰一人、悪人がでてこない。夫の悪友三人組も軽口ばかりだが、その根底には思いやりがある。娘の友人もしかりだし、娘も母親もお互いのことを考えている。

しかし、にもかかわらず、この映画には死の気配が立ちこめている。
既に亡くなっている夫の不在や、原節子が纏っている暗さ。
最後に死ぬときは誰でも一人なのだ、というあきらめのようなもの。
その孤独は自明の理であるし、なにかで解決できることでもない。
そんな解決できないことを抱えながら
生きていくということの意味を小津映画は考えさせる。
思いやりを持つということは解決ではないが
そういうことで、なんやかやと、あがいてドタバタするのが人間なのだと。

全編が小津の美学によってコントロールされ、
ローンアングルはもちろんなのだが、
画面が縦の線によって、遮られ分断される構図が印象に残る。
それは、最初の寺の法事のシーンの柱からはじまり、
飲み屋の路地、窓、会社の壁などなど、徹底している。
この、あえてせばめられた画角というか、
レイヤー構造が様式美の中に奥行きとリアル感を生んでいるように思う。

うーん、ご都合主義の結末か、それとも大人の解決か?    「パリ3区の遺産相続人」

2015年 フランス
 
※ネタバレ有り
 
 
主人公のジムは、さえない無職の57歳の男で
離婚を繰り返し、なにかも上手くいかない人生の敗北者だ。
その彼が遺産相続で受け継いだのは、パリにある高級アパートメント。
期待してその物件を見に来たジムだが、
しかし、そこには、老婦人マティルドが暮らしていて、しかも、それはヴィアジェの物件だった、というところから物語ははじまる。
ヴィアジェというのはフランス独特の不動産の販売方法で、売り主が死ぬまで、買い主が年金というカタチで購入代金を払い続けるというもの。
要は分割払いなのだが、支払い期限が売り主が死ぬまでというところがミソだ。
大体が、身寄りのない老人の売り主が多いらしいのだが、
売り主にとっては、自分が死ぬまで年金を貰い続けることができ、買い主にとっては、その代わり通常よりも格安で購入できるというメリットがある。
契約は死ぬまでなので、売り主が早く亡くなれば、買い主は大儲けで、
逆に長生きすると、買い主は損を見るという、死亡時期によって得か損か決まるというかなり罰当たりな制度ではある。
 
だから、ジムが相続した物件は、所有権は持っているものの、まだ自分の家ではなく、しかもマティルドの年金を払い続けなければならいないという、やっかいなものだったというわけだ。
そして、そのアパートには、行き遅れたマティルドの娘クロエも暮らしているので、ジムが自由に暮らせるわけではなく、いさかいがたえない。
 
所有権を持っているジムはさっさと売却しようと画策するのだが、
だんだんと、マティルドとジムの関係が明らかになってくる。
 
かつてジムの父親とマティルドが不倫関係にあり、
そのため、自分が父親とうまくいかなかったこと、そして母親が自殺してしまったこと。マティルドの娘クロエもまた、幼い頃から母親の不倫を知っており家族が上手くいってなかったこと。そのせいで、うまく生きることが出来ず結婚することもできなかったこと。ジムもクロエも、不倫のせいで自分たちの人生がうまくいかなかったと感じていること。
 
似たような境遇のジムとクロエは、だんだんと共感し親密な関係になっていき
そして、母親であるマティルドを糾弾するようになる。
そんなことは甘えで、うまくいかなかったのはあなたたちの問題だというマティルドだが説得力はなく、ジムの母親が自殺したということを知り倒れてしまう。
 
最初は、小洒落たヒューマンドラマという体だったのが、
このあたりから、だんだんとどろどろになってくる。
精神的に自立成長できない、いい歳をした子供VS
不倫をしてお互いの家族を不幸にしてしまった年老いた母親という構図で
あれ、なんか、シリアスドラマだったのかという雰囲気。
 
しかし、物語はその不倫の責任と子供たちがちゃんとした大人として成長できなかったことの関係に踏み込むことなく、雨降って地固まる的に3人で家族として暮らす、つまり、ジムとクロエが結婚しマティルドの面倒を見る、という選択をするところで終わる。
ハッピーエンドといえばハッピーエンドなのだが、でも、それは、傷ついた人生を歩んできたジムとクロエが救済されたわけではなく、
また、その苦悩を乗り越えて成長したということでもない。
ただ手近な幸せをつかんだという風に見える。
 
映画を見ている側としては、そうか解決させないのか、という思いを持つが
でも、現実ってそんなものかも、という思いもある。
 
自分も含め、だれもがきっちりと物事を解決しながら生きてるわけじゃない。
なんとなく、手頃な解決や手頃な幸せを選びながら、生きてるわけだし、それが、一概に悪いわけでもない。過去は過去にすぎないし、今、みんなが幸せになれるなら安易な解決でもいいじゃないかと。たとえ、問題を先延ばしするだけだったとしても。
 
なんてことを、この映画を観ながら考えてしまいました。
それが監督の狙いかどうかは不明ですが。
 

ドント・ブリーズ

2016年 アメリカ
 
製作:サム・ライミ
出演:スティーブンラング、ジェーン・レビ
 
 
デトロイトで暮らすうらぶれた若い男女3人が主人公。
彼らは、強盗を働き金を稼いでいる。
 
その3人が、次のターゲットとして選んだ家は、盲目の老人がいるだけという
赤子の手をひねるよりも簡単なミッションだったはずなのだが
それがとんでもない誤算。
このじじいが強いのなんの。戸締まりの厳重な家は、
あっというまに逃げることの出来ない密室となり
盲目のじじいに有利な暗闇状況とどう猛な番犬の存在もあり
簡単なミッションは、絶望的に困難なミッションになってしまう。
さあ、彼らはお金を盗み出し、逃げることができるのかというお話。
 
一般的なホラー映画だと、ちゃらちゃらした若者がキャンプに遊びに来て
そこで、殺人鬼に一人一人殺されていく、というのがよくある定番。
ちゃらちゃらしたという時点で、かなり反感を買っているので
見る側としても、半分自業自得だろう的な思いで見る訳だが、
本作は、強盗というさらに自業自得な状況。
 
しかし、彼らにも貧困問題やら家庭問題やらといろいろあり
主人公の女の子のロッキーは、幼い妹を底辺な家庭から救い出したいと考えていて
一分の理がないわけでもない。
 
なので、見る側の心情としては、五分五分というところなのだが、
このじじいが盲目のくせに聴覚、嗅覚をフルに使い、えげつなく強い。
逃げだそうと必死な若者の先手先手をとり、攻撃してくるさまは痛快なくらいだ。
しかし、後半じじいの秘密が明らかになると状況は一変し、
なんの落ち度もなかった、ただ強いだけのじじいが、得体の知れない悪役へと変貌する。
 
ここからは、攻守がめまぐるしく入れ替わるサドンデスなバトルへと突入する。
殺されたかと思えばさにあらず、やっつけたかと思えばさにあらず
まさにジェットコースターのごとく、ラストへと息もつかせぬ怒濤の展開、
あっという間の88分。
 
ホラーという触れ込みだが、どちらかといえばパニックサスペンス。
怖いというほど怖くはないが、プロットが秀逸でとてもよくできた映画だった。
映画館を出たところで、高校生くらいの男の子たちが
「じじい、怖ええ!」と盛り上がっていたのが微笑ましかったです。

あの日のように抱きしめて

2014年 ドイツ

監督:クリスティアン・ペツォールト
出演:ニーナ・ホス他

※ネタバレ有り

てっきり、この監督さん女性だと思ってました。
前作の「東ベルリンから来た女」もそうだったけど、
でてくる女性がとても誠実で、強くて、すごく女性的な感性な気がしたのだが。
どちらもニーナ・ホスという同じ女優さんで、
調べると前作がこの監督で5回目の主演とか出ていたので、もしかしたら、
この監督ニーナ・ホスの映画しか撮っていないのかもしれない。

特定の俳優さんとばかり仕事をする監督さんというのも結構いるので
それほど変わってはいないのかもしれないけれど、ここまでというのは珍しいかも。で、監督が男性となるとどういう関係なのだろうと考えてしまいます。
脚本も、常にニーナ・ホスさん想定の宛書きなんでしょうか。
まあでも、映画の出来から考えたら非常にリスペクトしているものと推測します。

さて、本作は第二次大戦終戦直後のドイツで
顔に大けがをおいながら、収容所から奇跡的に生還したユダヤ人歌手ネリーが主人公。手術によって顔が変わってしまった彼女が
元の夫とどういう関係を作るのかという物語。
妻は死んだものと信じている夫は、ネリーが妻だとは気づかず、
雰囲気が似ている彼女を相棒に妻の遺産をだまし取ろうと考える。

ネリーは、夫に対する愛情から、自分が妻だとは明かさずにその計画に乗る。
最初は、まるでつきあい始めのようで、浮き立つネリーなのだが、
だんだんと、夫の裏切りによって自分が収容所に送られたことが
分かってくるとともに、その愛情や浮き立つ心は醒めていく。
そして、自分の逮捕直前に夫から離婚手続きがされていたことを知り、
それは決定的となる。

このあたりの、二人の描き方がとっても素敵です。
最初、顔に傷を負い痛々しくも、
夫との久々の邂逅にうきうきするネリーは初々しく、可愛らしい。
いつ夫が本人だと気づくだろうと楽しみにする気持ちや
気づいてくれないもどかしさにすねてみたり。
それが、傷が癒えるとともに、痛々しさは消え自信と美貌が復活し、
逆に夫の方は、裏切りの事実が明らかになり
卑屈で弱い人間であることが見えてくる。

だんだんと立場は逆転し、
ラストでは、ネリーが劇的に決別を告げるのだが
その真実が明らかになるシーンは、
ちょっと類を見ないほど、鮮やかで痛快だ。
痛快なのだが、ちょっとほろ苦い。

この素晴らしいラストのためなら
顔が変わっても仕草とか背格好で妻だと気づくだろう
というようなつっこみは、どうでもいいんじゃないかと思わせる。