ラ・ラ・ランド

2016年 アメリカ
監督:デイミアン:チャゼル
 
※ネタバレ有り
 
 さて、いまさら、ラ・ラ・ランドであるが、
音楽は最高、でも話しは、うーんどうだろう。
アカデミーの作品賞候補でもあったわけだが、そんな映画ではないような・・・。
 
基本的に、この映画は、くるくる動くエマ・ストーンの表情と
音楽を楽しむ映画であって、それ以上ではない。
まあ、だからといってさほどけなしているわけではなく
そういう映画だと割り切れば、それなりに楽しい映画でもある。
こういう映画こそ、爆音上映会とかやればよいのでは、と思う。
 
しかし、ストーリーは、まあかなり雑だ。
いろいろな恋愛映画の分かりやすいエッセンスだけを寄せ集めたような作り。
ジャズミュージシャン志望のセバスチャン(ライアン・ゴズリング)と
女優志望のミア(エマ・ストーン)のラブストーリーなのだが、
ラブストーリーだということは、分かるのだが、そのすれ違いの理由とかが、よく分からない。
 
セバスチャンが、自分のジャズ指向を押し殺しコマーシャルなバンドで成功を得る。それに対し、ミアが、不満を持つのだが、その理由がよく分からない。
「自分の夢を捨ててなにしてるの!」みたいに怒るわけだが、いったい何を怒っているのか。夢と金儲けとどっちが大事。私のために夢を捨てるなんて、私望んでない。みたいなことと、想像するのだが、どうもそのプロセスがよく分からないのだ。そもそも、ジョン・レジェンド(!)率いるバンドの音楽と、セバスチャンの目指す夢との違いってなんなんだ。
セバスチャンの夢って、ジャズクラブのオーナーになること?
だったら、バンドで成功して、そのお金でジャズクラブやればいいだけじゃん、だし。バンドの音楽だって、そんなにかっこ悪い訳ではないし。
ジャズクラブのオーナーになることと比べて、良くないことなのか?
なんか、テーマに合わせるために、無理矢理すれ違いにしたかっただけじゃないの、とかって思ってしまう。
 
だから、このシーンは「愛する女性を養っていくために夢を捨てた男とそれを理不尽にも許せない女」という構図を、ただ、強引に作っているだけのように見えてしまうのだ。それは、全てのシーンが同様で、恋愛映画にある出会い、挫折、すれ違い、立ち直り、成功、別れ、というようなありがちなテーマに強引に物語を引き寄せているだけ、という居心地の悪さ、作り物感を感じてしまう。
 
まあでも、音楽は最高だし、特にメインテーマは名曲だと思います。
筆者は、あのテーマ曲を映画館の大画面で大音響で聴きたかったので、
それなりに満足でした。

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド

2007年 アメリカ
監督:ポール・トーマス・アンダーソン
出演:ダニエル・デイ=ルイスポール・ダノ

※ネタバレあり

この監督の映画を観るのは、「インヒアレントヴァイス」以来の2回目。
なんというか、重厚なドタバタコメディのよう。
こってりとエネルギッシュで、過剰な狂気にまみれている。
スコセッシとキューブリックを足して2で割ったような、といったらほめすぎか。
さらにいえば、そこに筒井康隆も入っている気が。

さて、その本作は、20世紀初頭のアメリカで石油にとりつかれた山師が成り上がっていく物語。主人公は、ダニエル・デイ=ルイス演ずるダニエル。彼は、成功のために手段を選ばない。そして、周りの人間を踏みにじって成り上がって行く。

主に3人の人間との関わりの中で話は進んでいく。

まずは、息子のHW。
息子といっても、かつて炭鉱の事故で死んだ仲間の忘れ形見。
小学校の低学年くらいのHWをいつも連れて、ダニエルは商売をする。
その方が、客受けが良く、そして誠実な人間に見られるから。
しかし、それだけを考えて行動する冷酷な人間という訳でもない。
ダニエルとHWは、ある種同志のような絆で結ばれていて深い信頼関係がある。
そしてダニエルは、HWに石油ビジネスを叩き込もうとする。
優秀なHWは、それに応えようと頑張る。

二人のタッグで、ダニエルは石油の出そうな土地を手に入れる。
土地の所有者は、貧乏な牧場主で、
その牧場主の息子で教会を主宰するイーライに資金を提供することを約束に
採掘権を手に入れるのだ。このイーライが二人目の人物。
イーライは牧師として、何かにとりつかれたようなカリスマ性を発揮し、地元では絶大な信頼を得ている。しかし、宗教などこれっぽっちも信じないダニエルはなにかにつけ、反目する。もくろみ通り、石油が出たあとも、ダニエルは約束通りの寄付をしない。そして、催促に来たイーライを痛めつけて追い出してしまう。

石油は出たものの、事故でHWはケガをし、聴力を失ってしまう。
二人はコミュニケーションがとれす、話しの通じないHWにダニエルはいらつくことが多くなり、HWもだんだんと変調を来すようになる。

そこに現れたのが、ダニエルの弟だという、ヘンリー。
彼が現れるとの入れ替わるように、ダニエルはHWを町の家庭教師のもとへと追いやってしまう。そして、いきなり現れたヘンリーを怪しいとは思いながらも、相棒として、ビジネスを進め、だんだんと後継者のように思っていく。

しかし、あることから、ヘンリーがニセモノであることが発覚し
命乞いをするヘンリーを殺してしまう。

そして、さらなる成功への道を突き進むのだ。

やがて、年月はすぎ、成功者としても地位を確固たるものにしたダニエル。
家には、なんとボーリングのレーンも備わっている。

ある日成人したHWは、自分も石油ビジネスで独り立ちしたいとダニエルに申し出る。そして、普通の親子関係に戻りたいと。しかし、ダニエルはそれを聴くや激怒し、口汚く罵倒しながらHWを勘当してしまう。

そして、毎日飲んだくれるダニエル。
そんな彼の元を金に困ったイーライが訪れる。
ダニエルの土地に隣接する土地の採掘権を自分は交渉できるから、資金を援助して欲しいと願い出る。そのイーライに対して「自分は偽予言者だ、神は迷信だ」と何度もいわせたあげくボーリングのピンで撲殺してしまう。

このダニエルの人物造形が、すべてといってもいい映画なのだが。
このダニエルという人間、それほど分かりやすくはない。

とても熱い魂を持ち、自分の身内に対しては際限のない愛情を注ぐように見えて、
なにかのきっかけでその全てを自分で破壊してしまう。
そのきっかけは、分かりやすく言えば、裏切りであったり
あるいは、自分の思うようにいかなかったからということになるのだろうが、
そこにあまり明確な論理はなく、ダニエルにしか分からない何かなのだ。
嫌いなものは嫌いで、好きなものも、長続きせずいつのまにか嫌いになっている。
そして、少しの裏切りや間違いも許すということはできず、
一度許せないと思った人間は、二度と元に戻ることがない。
非常に人間的な魅力にあふれているのに関わらず、
ダニエルは、そういう精神的な病というか業を抱えている。
独裁者とか、ヤクザの親分とか、企業の創業者とかに見られる、ある種の典型のようでもある。
だから、これは、成り上がり者がやがて孤独に苦しみ没落していくという映画ではない。彼は孤独に苦しみなどしないし、ただ自分の行動原理に従い、成功し、破滅するだけだ。その姿は、いさぎよく、痛快だ。

タイトルは「いずれ血に染まるだろう」という意味らしく
石油ならぬ血にまみれるというダニエルの生き様を皮肉ったもの。
邦題をつけるなら「血塗られた道」というところか。

あと、音楽はレディオヘッドのギター、ジョニー・グリーンウッドが担当。
こちらも、かなりこてこてに主張している感じが、演出とマッチしてグッドです。

The Future

2011年 アメリカ
出演:ミランダ:ジュライ、ハミッシュ・リンクレイター
 
※ネタバレあり
 
ミランダジュライの新作。といっても2011年ではあるが。
前作「キミと僕の虹色の世界」が愛や世界への信頼にあふれたものだったのに対し、こちらは、愛や世界への疑念に満ちている。
 
確かなものなど何もなく、
とりかえしのつかないことは、起こるという不安。
 
本作は、監督演じる主人公と同棲中の彼氏の物語。
彼らは、怪我をした猫を拾う。連れて行った保護センターのようなところで
その怪我がなおるまで30日かかるので、その時に迎えにきてと言われる。
そして、もし遅れたら処分することになると。
 
30日たったら、いままでのような自由はなくなるので
それまで、好きなことをしようと二人は考える。
 
彼氏の方は、街で偶然声をかけられた、環境保護団体の手伝いをすることにする。
ダンサー志望だった彼女は、毎日自作のダンスをユーチューブにアップしようと考えるのだがうまくいかない。
そして、どういう訳か、偶然出会ったナイスミドルの男性と浮気を始めるのだ。
 
正直、なぜ浮気にいたったのか、その経緯はかなり唐突で、よくわからない。
しかし、浮気は本気となり、二人は別れてしまう。
 
とりかえしのつかないことは起こってしまったのだ。
そして二人は、この先どうなるのか、というのがこの映画の本筋。
 
もひとつの流れは、拾われた猫のモノローグで語られる。
猫はいう。いままで、夜の暗闇が怖かったと、でももうこれからは、そんな暗闇を気にする必要はなくなると。
あと、迎えにきてくれるまで何日だろうと。
そして「僕はふたりのもの、二人は僕のもの」と思う。
要所要所で挿入されるこのモノローグは、映画のトーンにかなり影響を与えている。
 
しかし、二人の別れ話のごたごたで、迎えに行くのが一歩遅くれ、猫は処分されてしまう。ここでも起こる、取り返しのつかないこと。
 
ラストで、彼女は、彼氏が一人で暮らす、昔の家に戻るのだが
彼氏は、もう相手にしない。
そして彼女はある曲をかける。それは、もし、二人がお互いがよくわからなくなったら、思い出す為の合図の曲を決めようと考え、決めた曲。
映画は、しかし二人がもとに戻ったのかどうかは分からずに終わる。
 
かなり混乱した複雑なストーリーで、ひとつのストーリーというよりは
何か思考実験のようでもある。
 
それは監督自身の、この世界は果たして再び信じることができるのか、
という命題を解くための実験。
その実験は成功したのかどうかは分からない。
 
しかし、その痛々しさは心に残る。
私は、嫌いではない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

このろくでもない、愛すべき世界。             「君とボクの虹色の世界」

2005年 アメリカ
監督:ミランダ・ジュライ
出演:ミランダ・ジュライ、他

※ネタバレ有り

小説家でもある、ミランダ・ジュライの監督作品。
カンヌでカメラドールを受賞している。

本作は、監督本人が演じる不器用な主人公のラブストーリーを軸に
その周りで起こる様々な人間模様を描く群像劇になっている。

とにかく主人公の不器用な姿が心に残る。
ちょっと気になっている靴屋の店員にアプローチをしたいのだが、
スマートにはできずに、まるで不審者、ストーカーのように挙動不審だ。
帰りを待ち伏せしたことは見え見えなのだが、
何気ない風を装って、帰り道で声をかける。
そして、図々しく車に乗り込もうとするのだが、拒絶されてしまう。

だけど、この人は落ち込まずに、何度も店を訪れてはトライする。
そして、部屋で、一人より二人の方が絶対楽しいのに、ともだえる。


かなり、空回りするタイプで、やることなすことみんなずれている。
でも、彼女の行動は、愛することを肯定し、世界に対する信頼にあふれているので、そのポジティブさは、決して不快にはならない。
そんな、彼女のキャラクターががこの映画を魅力的なものにしている。
 
ミランダ・ジュライは、「ロイ・スパイヴィ」という短編小説を読んで以来のファンなのだが、その印象から、もっと都会的でスマートな人を想像していたので、この不器用さはちょっと意外。実際の彼女がどうなのか、気になるところ。
 
そして映画に登場する周りの人間も、誰も彼もみな、不器用でじたばたしている。
どっちが、フ◎ラがうまいのかと友達と張り合う女子高生の二人組とか
6歳の男の子とかわしたエロチャットを、大人の男と勘違いする女性とか。
きっと、女子高生も6歳の子供も勘違いする女性も、
みんなミランダ・ジュライの分身なんだろうね。
 
創造するということ、そして生きることは、
かっこわるくてじたばたすることなんだと気づかされる。
前向きなパワーにあふれてます。

衝撃のラスト12分・・・。で、結局なんだったんだ? 「FAKE」

 2016年 日本
監督:森 達也
出演:佐村河内守、他
 
※ネタバレ有り
 
 
もう、2年になるんですかね。
事件の記憶も既に朧気であるが、佐村河内氏へのインタビューを中心に
事件の真相を追ったドキュメンタリー映画
 
 映画は、大きく3つのパートに別れている。
最初のパートは、佐村河内氏に寄り添い、世の中の一方的な見方を
「詐欺師といわれるけれど、そうでもないかもしれないよ」と見る人に問いかける部分。
映画は「感音性難聴」という診断書を提示し、全く聞こえないわけではないけれど
言葉は聞き取りづらい、ということを説明し、障害を持つ少女との交流を映し出し、
そして何より献身的な奥さんの姿を見せていく。
新垣氏がテレビのバラエティ番組に出演し、まるでタレントのようにふるまうのを見て
黙り込む佐村河内氏の表情も、なかなかくるものがある。
聞こえるかどうかも、単なる指示なのか共作なのかどうかも、
白か黒かという明快な二元論では語れないという、ここでの主張は、一定の説得力を持っている気にもなってくる。
ここは、「佐村河内=悪、新垣=善」という世の中の一方的なイメージに疑念を呈すパートでも有り、おそらく、監督の森達也氏が佐村河内氏と信頼関係を築くというパートでもあるのだろうと思う。
 
しかし、その次のパートでその流れは変わる。
海外メディアの取材のシーンだ。
 
「なぜ1?年間、作曲法を学ぼうとしなかったのか?」
「指示書は作曲ではない。音源はないのか?」
「ピアノを弾くところを見せてくれないか?」
「なぜ家に楽器がないのか?」
という、至極まっとうな質問に対し、佐村河内氏は全く答えることができない。
そして、楽器のないことに対し、「部屋が狭いから」というのだ。
 
このパートで、やっぱり佐村河内氏は音楽家じゃ、ないんだね、となる。
まあ、もともと指示書を渡していただけというのは、既に公表していることではあるが
こうやって理詰めで確認していくと、それが身も蓋もなく明らかになってくる。
そして、そこに、おいうちをかけるように監督はいう。
「あなた音楽が好きなんでしょう。だったら、作りましょうよ、音楽。」
 
そして最後のパート、ここが衝撃の12分といわれている部分、佐村河内氏が新曲を作るパートだ。
新たにシンセを購入したと連絡を受けた監督が、行ってみると
シンセを前に曲を作る佐村河内氏がいる。
この場面を観ると、上手くはないが、それなりにキーボードを演奏する事が出来るのだと分かる。新曲は、メインのメロディはあらかたできあがっていて、
アレンジの詰め作業をおこなっているところだ。
そして、曲は完成し、奥さんと監督の前で披露される。
曲は、よくいえば、ドラマチック、聴く人によっては、
感動的でいいという人もいるかも、というような大仰な音楽。
 
ただ、プロの作品かといわれれば、どうだろうという印象。
この程度の作曲ができたからといって特に大きな驚きはない。
ああ、このくらいはできるんだね、という感じ。
 
しかし、披露が終わった佐村河内氏に対して監督は、
曲の感想を言うでもなく、創作のプロセスを尋ねるわけでもなくこう言う。
「いまぼくに何か隠していることはありませんか」と。
そして、その質問に対して、答えられずにつまる佐村河内氏のアップで映画は終わる。
 
この質問の意図はなんなのだろう。
そして、この映画の意図はどこにあったのだろうと、思う。
 
今回、新曲作成のプロセスは映されていない。
だから、実は誰かに依頼して作っているのかもしれない。
観てない以上、そうではないと言うことはできないし、そうだともいえない。
 
なぜ、その期間、撮影ができていないかと言うことに対して
後のインタビューで監督はこんなことを言っている。
「曲を作ると言ってから、何でかは覚えていないんですが僕が頭にきて、
撮影に行かない時期があった」と。そして、それは痛恨のミスだと。
 
しかし、本当にそうなのだろうか。
むしろ、曲を作ることをけしかけた上で、そこをあえて曖昧にしたかったのではないか。
監督にとって、結局、佐村河内氏が作曲できようができまいが、どうでもよかったのではないかと。
 
監督が描きたかったのは、そういう真実ではなかったのではないか、
じゃあ、いったい、何を描きたかったのか?
そんなことがぐるぐるする映画でした。
 
 

失ってからはじまる人生の再発見。            「永い言い訳」 西川美和

西川美和の「永い言い訳」であるが、映画ではなく本の方。

妻が突然のバス事故で亡くなるという悲劇に見舞われた男の物語。
主人公は、小説家、衣笠幸夫。
イケメンで、タレント作家としてもそれなりに売れっ子だ。
しかし、最近は妻への愛情も醒め、出版社の女性と不倫関係にある。
事故の知らせを聞くも、悲しむことも出来ず
気持ちの落ち着けどころを見つけることができない。

罪悪感を抱けばよいのか、それとももう終わっていたのだと開き直ればよいのか
そもそも、なぜ妻と距離ができてしまったのかが、分からない。
なにかきっかけがあったのかなかったのか、それが自分のせいだったのか、
妻のせいだったのかも分からず、ただ、心の中で右往左往する。
そして、迷走する。

そこに現れた、同じ事故で妻を亡くした大宮陽一。
長距離トラックの運転手をしながら
まだ小さい子供たちとの暮らしに必死に奮闘している。
妻同士が友人だったことも有り、連絡してきたのだが、
陽一は妻を亡くしたショックから立ち直る事ができない。
そのストレートな感情に、幸夫は困惑する。
しかし、陽一の長男、中学受験を目指す真平に、なんとなく親近感を持った幸夫は
彼らの家族のサポートすることになる。
そして、彼らとの生活を通して、幸夫は新しい自分を発見していく。

自分の気持ちに正直になろう、とはよくいうことであるが
はたして自分の正直な気持ちなどというものは存在するのだろうか。
そんなものは、ただ、揺れ動く瞬間のできごとにしか過ぎず、
不確定性原理のように、これが自分の気持ちだと思った次の瞬間には
すでに変わってしまっている、いつまでたっても捉えることの出来ない、
そんなもののような気がする。

だから、自分の気持ちに正直になるとは、
自分はこの気持ちなのだと信じ、それとともに生きていくという決意なのではないか。
その決意すらも、しかし、確固たるというものでもない。なんとなく、そのポジションが居心地がいいということに、ふと気がつく、という程度のもの。


この小説は、解決も出口も存在しない迷路の片隅に
自分の居場所らしきものを、見つけることができるかどうか、そんな話のように思える。

しかし映画のサイトを見ると、「かつてないラブストーリー」とあり、
しばし、そうなのだろうかと考えてはみたが、
これをラブストーリーと呼ぶかどうかは、私にはよく分からなかった。

小説を読みながら、どういうキャスティングなのだろうと考えていたのだが、
幸夫役が本木雅弘、陽一役が竹原ピストル、ということを知り
「おおそうか、竹原ピストルか!」と、納得した。
本木雅弘は、どうなんだろうという感じであるが、そのうち映画も観てみたい。

ユーモラスな人間ドラマの裏にある、死の気配。      「秋日和」

1960年 日本
監督:小津安二郎
出演:原節子司葉子佐田啓二佐分利信岡田茉莉子

※ネタバレ有り

小津が描くのは、親からこどもへと家族がつながっていく物語。
そこでの、ちょっとした行き違いや変わっていくことへの畏れ。
ある部分を取り出せば、家族の崩壊かもしれないし
それは同時に新しい家族が生まれるということかもしれない。

本作も、そんな小津の世界が描かれる。

夫に先立たれた母親と、
その母親を残して嫁に行けるかという娘の物語。
母親を原節子、娘を司葉子が演じている。

亡くなった夫の悪友連中は、24歳になる娘を心配し、
なんとか心残りなく嫁にやろうといろいろ画策する。
娘に出来のいい部下を紹介したり、それでも娘が母親を気にしているとみるや
母親に悪友の一人をくっつけようとしたり、そこに岡田茉莉子演じる娘の友人も絡み、さまざまな企みが、ユーモラスなコメディタッチで描かれていく。

最後には、娘は紹介された男性と結婚することになるのだが、
母親は、再婚をせずに一人で暮らすという決断をする。

この小津の作った世界は、思いやりと愛情にあふれている。
誰一人、悪人がでてこない。夫の悪友三人組も軽口ばかりだが、その根底には思いやりがある。娘の友人もしかりだし、娘も母親もお互いのことを考えている。

しかし、にもかかわらず、この映画には死の気配が立ちこめている。
既に亡くなっている夫の不在や、原節子が纏っている暗さ。
最後に死ぬときは誰でも一人なのだ、というあきらめのようなもの。
その孤独は自明の理であるし、なにかで解決できることでもない。
そんな解決できないことを抱えながら
生きていくということの意味を小津映画は考えさせる。
思いやりを持つということは解決ではないが
そういうことで、なんやかやと、あがいてドタバタするのが人間なのだと。

全編が小津の美学によってコントロールされ、
ローンアングルはもちろんなのだが、
画面が縦の線によって、遮られ分断される構図が印象に残る。
それは、最初の寺の法事のシーンの柱からはじまり、
飲み屋の路地、窓、会社の壁などなど、徹底している。
この、あえてせばめられた画角というか、
レイヤー構造が様式美の中に奥行きとリアル感を生んでいるように思う。