ブルックリン

2015年 アイルランド、イギリス、カナダ
監督;ジョン・クローリー
出演:シアーシャ・ローナン

※ネタバレ有り


思いがけず二股をかけることになってしまった女性の
心の揺らぎを描いた映画。

1950年代、アイルランドで姉と母親の三人で暮らすエイリッシュは
地味でパッとせず、ダンスパーティでも男性から声がかかることもない。
仕事は売り子で、そこの女性店主は、嫌みで詮索好きの嫌われ者。
しかし、他に働く場所もなく先の展望もない閉塞的な状況。

そんな状況を変えるため、
姉のすすめもあってニューヨークに移民として渡ることにする。
故郷を捨て、新天地を目指した訳だ。
そこでのエイリッシュはただの田舎娘だ。
デパートの売り子をするが、スマートな接客もできず
ホームシックに悩む毎日。
それが、イタリア移民の彼氏が出来て、状況は好転する。
毎日が楽しくなって、接客もうまくいくし、習い始めた簿記でも良い結果がでる。
そして、彼氏とも結婚を意識するようになり、明るい将来が見えはじめる。

そんなところに、姉の訃報が届き、
久しぶりに故郷へ帰ることになる。

故郷に帰ると、エイリッシュは垢抜けて洗練された都会の女性だ。
当時はあんなに地味だったのに、逆に浮いている。

そして、当時は相手にもされなかった名士の息子から求愛されるし、
簿記をいかして、短期ではあるが、やりがいのある仕事もまかされることに。
出国当時は居場所もなく、わずらわしく魅力のない街と思えたのに。
今ではエイリッシュが主役になったようだ。

街を出る前に、この状況が想像できたら
アメリカに行くこともなかったのに、という半ば後悔のような感情。

しかし、誰にもいっていないが、エイリッシュは、アメリカの出国間際に
彼氏の強引な頼みで、結婚をしてしまっている。

毎日は楽しく、ずるずると滞在は延び、心はゆれる。
しかし、時間が巻き戻せるわけではない。

そんなとき、かつての嫌みな女性店主が
エイリッシュがアメリカで結婚したことを、知り合いから聞きつけ、
さも得意げに弱みを握ったとばかりに、彼女を問い詰める。
「あなた、いろいろ楽しんでるみたいだけど、
実は名字が変わってるんじゃないの?」と。
それに対してエイリッシュはいう。
「忘れてた。・・・ここは、こんな街だった」。

このセリフが映画のハイライトですかねえ。
「結婚していたことを忘れていた」、というのかと思わせながら、
「こんな(貴方のような厭な人がいる)街だったことを忘れていた」と言わせ、
そのことによって、今までの二股状況にゆらぐエイリッシュの気持ちを
鮮やかに、転回させる。

 
そして、エイリッシュはアメリカに帰国する。

エイリッシュは、アメリカの彼氏への愛情を思い出したわけではない。
ただ、何に対して誠実であるべきかということを思い出しただけだ。

どっちが好きだ、という好き嫌いの話ではなく
人間としてのプライドとモラルが問われているのだから、
そこには悩みが入る余地がない。
だから、エイリッシュは自分に恥じながらも、即断する。

しかし、女性店主から指摘されなければ
どうしてたんだ、というつっこみは、誰もが思うところ。
だから、このラストは、観ている我々に何ともいえない印象を残す。
納得出来るような、釈然としないような
爽快であるような、ほろ苦いような。

そんな想像も含め、曖昧さや複雑さが
この映画の魅力になっているのだろうと思う。
 
 
 
 
 

たかが世界の終わり

2016年 カナダ・フランス
監督:グザヴィエ・ドラン
出演:ギャスパー・ウリエル、レア・セドゥ、他

※ネタバレ有り

なんやかや言いつつも、結局観てしまうドランの映画。
なんていうか、賞賛にせよ非難にせよ、なにか言いたくなる
心をかき乱す何かがあるんだろう、と思う。

さて、今回は、田舎に残って親の世話をみながら地味に頑張ってきた兄と、
早くに都会に出て成功をおさめた弟との壮絶な戦いの物語。

弟は12年ぶりに故郷の家に帰ってくる。
ゲイであり、劇作家?として成功をおさめているらしい。
なぜ、出て行ったのか、そして12年も帰ってこなかったのか、説明はない。
しかし、今回の帰郷はなにか病気に冒され、先行きが長くないことを
知ったためであるらしいことが、だんだん明らかになってくる。

しかし、兄はそれを拒絶する。
地味な仕事を頑張り、母親の面倒を見、妹の面倒を見、結婚もして
子供も二人作った兄としては、なにをいまさら、という気持ちだ。

彼を迎える家族。そこには高揚感があふれている。
久しぶりの息子を迎える母親の高揚、
成功者としての次男にあこがれを抱く末の妹の高揚。
はじめて弟に会う兄嫁、その高揚感がますます兄の気持ちを逆なでする。

だから、兄はなにかにつけ、皆につっかかり、イライラをぶつける。
兄嫁が、親しげに弟に話しかけようとするとあからさまに邪魔をする。
弟が退屈してるとか、意味不明な理由をこじつけながら。
妹が、弟をかつて暮らしていた昔の家に連れて行こうとすると文句を喚き、
その話しをつぶしてしまう。
そして、話しをしようとする弟を拒絶する。

映画の大部分は、この兄のイライラと、それに対する家族の反感や罵倒だ。

そして、午後のデザートタイム。
弟はいよいよ病気のことを告白しようとするのだが、
何かを感じた兄はそれをさえぎり弟に話しをさせず、強引に帰らせようとする。
妹と母親は、いきなり何をいいだすのかと兄に抗議し、
罵倒するのだが混乱は大きくなるだけだ。
しかし、あまりに強烈な拒絶にショックを受けた弟は
うちひしがれ、何も話すこともできずに帰っていく。

それは、死んでも弟に居場所なんか作らせるものか、という兄の決死の戦いだ。
悲劇の主人公として甘ったるい感傷をもって、
のこのことやってきた弟は、見事に返り討ちにあう、というそういう映画。
もともと、覚悟が違うのだから、勝敗は最初から決まっていたようなもの。
家族は、兄を罵倒するものの、兄の拒絶の意味を本能的に感じ取り
そして、結局は兄の横暴を許すことになる。
表面的には非難しながらも、心の奥底では兄をリスペクトしてしまう家族。
それは、イコール弟を拒絶することになるのだが、どうすることもできない。

こんな話は、日本だってどこだって転がっているし、
どの家族だって多かれ少なかれはある話。
でも、この映画が妙に心にひっかかるのは、兄の横暴さが常軌を逸して
心理的な暴力と圧迫感に満ちているからだろう。
それは観ている我々を落ち着かなくさせる。
本当にいらいらするのだけれど、つい観てしまう、そんな感じ。

「トムアットザファーム」もそうだったけど
この暴力的な横暴さによる支配、いいかえればそんな横暴さへの生理的な嫌悪は、
ドランの映画のひとつのキーワードなのだろうか。

まあしかし、誰かに共感できるということもなく、救いのない映画であった。

淵に立つ

2016年 日本・フランス
監督:深田晃司
出演:浅野忠信筒井真理子、古館寛治

※ネタバレ有り

「ほとりの朔子」の監督だが、肌触りはだいぶ違う。
前作は妙なリアル感があって、ちょっとドキュメントっぽい作りだと思ったのだが
シニカルな軽さがあり、今作はもっと映画的な重さがあった。

浅野忠信演じる、八坂の出現により崩壊する家族の物語。

町工場を営む利雄の前に、古い知り合いの八坂が訪れる。
八坂は出所したてのようだが、利夫は八坂のために自宅の一室を与え
住みこみで働いて貰う事にする。
最初はとまどう妻だが、八坂の誠実な人柄にだんだんと好感を持ちはじめ、
娘の蛍も八坂になついていく。

やがて、八坂と利雄の関係が、実は殺人の共犯者で
八坂が黙秘したために罪に問われなかったのだと言うことが明らかになってくる。
そして、過去の罪を告白した八坂に、妻の章江はますます好意を感じ、
不倫に近い関係になっていく。
家族は八坂を中心に回り始め、誠実で清廉な八坂はその仮面を脱いでいく。

家族の中に秘密が生まれ、不穏な空気が漂い始めた頃、事件は起こる。
外に出かけた蛍を探しにでた利雄は、
蛍が頭に大けがを負い、そのそばには八坂の姿があるのを、見つける。
利雄は動転し、八坂はそのまま失踪する。

しかし、物語はここからが本題だ。

8年の年月が流れ、蛍の意識は回復せず、
車椅子にすわったまま、話すことも動くこともできない。
利雄は、興信所を使って八坂を探し続け、妻の章江は娘の世話に疲れ果てている。

八坂の出現と彼の行為は、まるで神による試練のようだ。
劇中でも、利雄は、蛍がこうなったのは、夫婦二人への罰だという。
共犯者でありながら、ぬくぬくと罪を償わなかった利雄と
妻でありながら、八坂と精神的な不貞を働いた章江への。

それに対し、章江は、なにをばかな事をいっているのだと怒る。
蛍の面倒を見るということの現実を見ろと。

罰であるかどうかは不明だが、まぎれもなく試練だろうと思う。
この状況でも、家族という信仰を持ち続けることができるか、という試練だ。

八坂に悪意があったのかどうかもわからず、八坂が蛍に何をしたかもわからない。
八坂が利雄の前に現れたのも、妻の章江を誘惑したのも、
復讐の意図からなのかどうかも不明で、全ては利雄と章江にゆだねられている。
この理不尽な試練に対して、どう振る舞うかが問われているのだと。
それはまるで、聖書のヨブ記を連想させる。

自分のせいなのか、そうでないのか。そして、自分はどうすべきか、
どんなに自問自答を繰り返しても答えは見つからない。
それでも、二人は自分の闇と、向き合わざるを得ない。
しかしそこに、答えなんてものはは存在しない。
ただ、極限的な状況に置かれたときの人間の苦悩があるだけだ。

ここにあるのは、そんな象徴的で神話的な物語ではないか。
似ていると言えば、遠藤周作の「沈黙」のほうか?

正直、こんな淵には立ちたくないな、と思いました。
できうれば、一生。

ホラーよりも怖い人間ドラマ。 「セールスマン」

2016年 イラン・フランス

監督:アスガー・ファルハディ

出演:シャハブ・ホセイニ、タラネ・アリシュスティ
 
※ネタバレあり

ある事件をきっかっけに
変質していく感情、そして夫婦の関係。
とてもヘビーで、ある意味心理ホラー的な側面もある怖い映画であった。

アパートの取り壊しから急に引っ越しすることになった夫婦。
友人から紹介された引っ越し先で
妻は不注意から突然の侵入者に乱暴されてしまう。
頭を負傷し、心も深いダメージを負う。
一人で部屋にいることも耐えられず、精神は不安定になり
夫に無理難題をいっては困らせる。
夫の方は、警察に通報し犯人を捕まえたいと考えるが
妻は、それを望まず、早く引っ越し、全てを忘れたいと考える。

数日後、現場に残されたトラックから夫は犯人を探し出す。
しかし、その犯人は年老いて弱々しい男だった。
トラックでセールスをしているのだという。
そして、夫婦の引っ越し先に前に住んでいた娼婦の顧客であり、
勘違いから起こった悲劇であることが分かってくる。
そして、その男は家族に愛され、娘は結婚を間近に控えている。

夫は、犯人を監禁し家族の前で懺悔しろと迫る。
そこに連れてこられた妻は、しかし、もう許してあげてという。
しかし、夫は振り上げた拳を、夫は下ろすことが出来ない。
自分で自分をコントロールできずに、
当初の怒りと正義感だけをよりどころに行動を続けるしかなくなっている。
そして起こる犯人の男の病気の発作。

夫は、自分の正しいと考えることを実行し、
全てを明らかにし、責任をきちんと取らせようとする。
しかし、妻はそんなことは望んでおらず、
ただ早く事件を忘れ、心の平穏を取り戻したいだけだった。
夫に求めたことは、ただやさしさだったのだろうか。
そのすれ違いは、犯人の男の発作という極限状況の中で、
どうしようもないほど広がっていく。

止めることの出来ない感情と、持って行き場のない怒りと悲しみ
そのことによる心の変質と関係の崩壊。
夫の行動が理不尽のわけではない。充分に抑制された合理的な行動だったはず。
しかし、その行動が妻から共感を得られないとなったとき、むしろ反感を生むとなったときに、男の中の何かは微妙に変質し、妻との断絶を生んでいく。
ダメージを負ったのは妻だったが、微妙に変質してしまったのは夫かもしれない。

ラストの完全に壊れてしまった二人の表情の恐ろしいことといったら。
そんじょそこらのホラーよりも怖いです。

マジカル・ガール

2014年 スペイン
監督:カルロス・ベルムト
出演:バルバラ・レニー

※ネタバレ有り

謎の美女、バルバラを巡る物語である。
バルバラは、裕福な精神科医と結婚している。
しかし、彼女は少々心の問題を抱えているようだ。
情緒不安定、というようなレベルの。
そのせいで、夫の信頼を得られていない。

話しはさかのぼるが、
バルバラが中学生くらいの頃に数学の教師と問題があったようだ。
その数学の教師は、その後数年間刑務所に入ることになった。
おそらく、バルバラとの問題のせいで。
それが何かは、明らかにされない。
しかし数年間服役するくらいなのだから、
些細な話しではなかったのだろうと思う。
ただ、バルバラは、教師に対して厭な気持ちは持っていないようだ。
それどころか、信頼をしている風でもある。
デリケートな問題を相談出来る相手として。
しかし、教師の方は微妙だ。
バルバラに対して、悪いと思う一方で、
もう、あまり関わりたくないと思っている。
もしくは、関わったら、また歯止めがきかなくなると畏れているのかもしれない。
それは何の歯止めだろう?

その中で起こる事件。

余命幾ばくもない、日本アニメが好きな小さな少女の
たわいもない望みが、巡り巡ってバルバラへとつながっていく。

バルバラは、夫に内緒でお金を工面する必要に迫られ
かつて知り合いだった、コールガールの斡旋を生業としている女性に相談する。

どういう知り合いだったのかは分からないが、
バルバラがかつて、そういうビジネスに関わっていたらしいことはわかる。
それが、彼女の心の問題や、教師との問題に関わっているかは不明だ。

そして、バルバラは、1回限りでそういうアルバイトを行うことにする。
「挿入は無し」それが条件だ。
しかし、それ以外は何でもありということだろう。
それが何かは、分からないが。

ある館で、それは行われる。
車椅子に乗った、館の主が言う。
「人々は、なぜ闘牛に熱狂するのか」
理性と理性で無いものがせめぎ合う、それこそがよいのだと。
ここで、提供されることも、そういうものだと。

服を脱いだバルバラの体は傷痕だらけだ。
それもかなり古そうな。
つまり、バルバラがかつて関わっていたのは、
そういう類いのことだった、ということなのだろう。
そして、また、そういうことに手を染めようとしている。

しかし、1回で終わるはずだったそれは
想定外の出来事により、さらにエスカレートする。
工面する金額は増え、バルバラのアルバイトもさらに過激なものが要求される。

バルバラは、斡旋者の女性が真剣に止めるのも聞かず
その仕事を受けることにするのだ。

それらが、何なのかは一切描かれないが
そこから、教師も巻き込んで悲劇の連鎖が始まっていく。

ここには、描かれていることと描かれていないことがある。
むしろ、描かれていないことが、物語の推進力となっているようにも思う。
いくつかの断片とディテイルが作り出すイマジネイティブな世界。
映画的な、想像力を刺激する世界。
そして、完璧なプロットと完璧なバランス。
全くノーマークの映画だったが、傑作と思う。
最近のスペイン映画恐るべしだ。

騎士団長殺し

村上春樹 著
2017年 新潮社刊


村上春樹が描く苦悩とは、いったい何だろう。
主人公は、上品で知的で、どろくささというか
生きることにあがいている感じは全く感じさせない。
女の子にももてるし、才能もあり、物腰の全てがスマートだ。
でも、彼は、何かを失う。大切な何かを。
妻だったり、恋人だったり、妹だったり。
そして、その理由が分からない。
自分で、気づかぬ何かのために、大切な人を失うのだ。
失った原因は、彼にあるのに、彼はその理由が分からず途方に暮れる。

なにひとつ、悪いことをしたわけではないのに
大切な人は彼の元を去って行く。

村上春樹の苦悩とは、そんな不条理な恐怖だろうか。
自分では分からぬ理由によって、世界から拒絶される、という恐怖。

喪失というよりは、拒絶、という感覚。

自分には、何かが決定的に欠けていて
誰かを安心させ満足させることができないのではないかという不安。

彼が、クールであるのは、そういう不安に対する防御反応だろうか。
どうせ、拒絶されるなら、自分から拒絶するという過剰反応。

そして、彼の不安と不安定さは、何者かを呼び寄せる。不可思議な何かを。
その何かの中には、いいものもあり、闇としかいえないような悪いものもある。

その不可思議なものの導きにより、彼にはあるミッションが与えられる。
彼は闇と戦い、そのミッションを遂行することによって、
世界の手触りや確固とした確かさを、もう一度信ずることを思い出す。

そして、世界の拒絶という問題を乗り越えることに成功する。
それはしかし、彼が乗り越えたのか、それとも
彼ではない誰かのおかげで、乗り越えることができたのか。
よく分からないという疑問は残る。

ここに、描かれているのは、そんな物語だろうか?

豊かで非常に興味深いディテイルと、抽象的な苦悩と解決、そんな感じ。
村上春樹って、こんな感じだっけ、というのが率直な印象でした。
結構、いろいろ読んでるんだけど。

ちなみに、物語に登場する「白いスバルフォレスターの男」は
ツインピークス」のボブだよなあ、と想いながら読んでました。
村上春樹と、リンチって、何か似ている気がします。

わたしはロランス

2012年 カナダ・フランス
監督:グザヴィエ・ドラン
出演:メルヴィル・プポースザンヌ・クレマン

※ネタバレ有り

性同一性障害を抱えるロランスと
その彼女フレッドの、ラブストーリー。

一番印象に残ったのは、
フレッドと別れた後、ストーカーのようになっていたロランスが
許しを貰い、彼女の家を訪ねる場面、
その、本当にうれしそうなロランスの笑顔。

その笑顔に、ちょっと心を打たれた。

なんだろう、母親に100パーセントの信頼を感じている子供が
母親に見せるような、笑顔。
その笑顔が、あまりに無防備すぎて、逆に怖くなるようなそんな感じ。
ああ、大人なんだからそんな無防備な笑顔を見せちゃだめだろう、
といいたくなるような息苦しさ。

考えて見ると、ドランの映画は、すべてそんな息苦しさに満ちている気がする。
無防備に、100パーセントの愛情を求めることのせつなさと、それを失う恐怖。

そして、家を訪ねたロランスは、フレッドと久々に再会し、
盛り上がった二人は家を飛び出してしまう。
彼女には、夫も子供もいるのに。
しかし、二人の逃避行は長くは続かず、今の生活や家族を捨てることのできないフレッドと、結局はけんかをして、また別れてしまう。

 
それから、数年後、また二人は再会する。
フレッドは、既に夫と別れている。
しかし、ロランスの淡い期待とは裏腹に彼女はいう、
「そろそろ地上に降りてきたら」と。
ロランスは、それを聞き、本当に二人の関係が終わったことを知る。

という、大人な感じのビターな結末。
失うまでは恐怖だけど、失ってしまえば、それは既に過去のことだ。
せつないような、でも息苦しさからは解放されて、ほっとしたような。

ところで、この映画は、ロランスが性同一性障害を抱えて、
それをカミングアウトするところから、彼女との間に溝が生まれるという話だが、性同一性障害とゲイとどう違うのか、あまり理解していなかった。

ロランスの場合は、体は男性、心は女性だけど、女性が好きというタイプ
だったんでしょうね。