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アメリカン・スナイパー

2014年 アメリカ

 
 
出演:ブラッドリー・クーパー
 

※ネタバレ有り
 
 
クリントイーストウッドの知性とは、どういものであろうか。

本作は、イラク戦争で狙撃兵として数々の功績を残したクリス・カイルの自伝を元にした映画。だから、ここには、クリスの視点とイーストウッドの視点が入り交じっている。

映画冒頭で、父親が子供たちを前に訓示を垂れる。
「人間には3種類の人間がいる。狼、羊、そして番犬だ。おまえたちは番犬になれ」と。
クリスは、その影響を受け、強い男に成長していく。カウボーイを目指すも、ぱっとせず、クリスは軍隊を目指すことに。

おりしも、9.11の事件は起こり、クリスは祖国を守るためにテロと戦うということを強く意識するようになる。クリスが、所属したのはネイビーシールズという特殊部隊。
そこで狙撃の才能を開花させたクリスは、狙撃兵としてイラクに派兵される。
派兵される少し前に、クリスは結婚している。だから、クリスは新婚の花嫁をおいて、イラクに出兵した。

戦場において、クリスはめざましい功績をあげる。つまり、たくさんのイラク人の敵兵を狙撃した、ということだ。その活躍は、部隊で「伝説」というニックネームをつけられるほどだ。彼の行動原理は、明快だ。仲間を守る。それだけだ。だから、彼の行動は迷いがない。

あるとき彼がライフルスコープで監視する建物から小学生くらいの男の子と母親がでてくる。母親は、こどもに対戦車手榴弾を手渡す。それをもって走り出す男の子。若干の逡巡の後、クリスは男の子を撃ち殺す。汗ばみ、首を振るクリスの無線から、司令部の声が聞こえる。「正しい判断だった。よくやった」と。

クリスは、そこで必要以上には悩まないし、引きずらない。なぜ、母親と子供が戦わざるをえないのかに踏み込まない。なぜなら、彼には、仲間を守るという大義があるからだ。そして、クリントイーストウッドも必要以上には、そこを掘り下げることはしない。

イラク戦争とは、第二次湾岸戦争と言われることもあるが2003年にブッシュがはじめた戦争だ。「大量破壊兵器を隠し持っていると難癖をつけて」。しかし、そんなものは存在しなかった。だから、この映画を見る我々は、この戦争に正義がないことを知っている。クリスの祖国を守るという行動に大義がないことを知っている。
イーストウッドは、ことさらに、そこにフォーカスはしない。しかし、イラク人を単なる敵として描いているかといわれれば、そうではない。きちんとそこで生活している人として描いている。

しかし、いかに行動原理が明快であろと、それが心に影響を及ばさない訳ではない。
6週間の出兵が終わり、故郷に帰るクリス。妻のタヤはクリスを暖かく迎える。しかし、なかなかその生活になじめないクリスは、タヤも心は戻ってきてないと不満をぶつけるなか、志願してまたイラクへと戻っていく。戦場での体験は、クリスを変えてしまった。

イラクでは、彼は必要とされ、仲間を守ることができる。彼は「伝説」でありヒーローだ。そこでは、適切な判断と、素晴らしい狙撃技術でたくさんの功績を残す。仲間と戦うシーンは、戦争礼賛だという批判もなるほどというヒーローストーリーだ。危機があり、それを仲間とともに切り抜け、目的を遂行する。

イラクで功績を残しては、故郷に帰り、家族と暮らす、という生活を繰り返すクリス。やがて、子供も2人生まれるが、故郷での暮らしになじむことはできなかった。

イラク行きは、6回におよび、そして、宿敵を倒したクリスは、ようやく軍隊を除隊し故郷での生活をはじめる。なかなかなじめないクリス。しかし、病院で、帰還兵の手助けをするということをはじめ、クリスもその違和感から解放されていく。

ようやく、故郷での生活にもなじんできたころ、手助けをする帰還兵から撃たれ、クリスは死ぬ。理由は不明だ。

本作は自伝なので、当然そのラストはなかったのだが、本作制作中に、その事件は起こり、ラストが変わったということらしい。

戦争シーンは、なるほど緊迫感にあふれ素晴らしいし、ライバルともいうべき敵スナイパーとの戦いも手に汗握るおもしろさだ。
しかしクリントイーストウッドは、この映画をただのアクション映画にはしていない。でもだからといってクリスの内面に踏み込むこともしていない。だから、クリスが、どれほどの闇を抱えていたのか、いなかったのかは分からない。ヒーロー然として描いてはあるが、ヒーローともヒーローでないとも明確にはしない。クリスはこの大義のなかったイラク戦争の犠牲者なのかもしれないし、ヒーローなのかもしれないし、あるいは罪深き罪人なのかもしれない。その判断は、観客にゆだねられている。

イーストウッドのスタンスは、事実を事実として観客の前に提示すること。そこにできるだけ、主観をまじえないこと。それだけだろう。(あるいは、うがっていえば、そう見えるようにすること。)本筋と関係のないところでは、エンターテイメントとして映画的なカタルシスも追求するが本筋においては、寡黙を貫いている。イーストウッドは、踏み込むべきところと踏み込むべきではないところの判断が完璧だ。黙るべきところでは黙る、という節度を知っている。
それこそが、映画人としての彼の知性なのであろう、そして観客にボールを投げるのが上手い。気がつくとボールを持たされ、ついなんか、投げ返さなきゃと思ってしまいます。