わらの犬

1971年 アメリカ
監督:サム・ペキンパー
出演:ダスティン・ホフマンスーザン・ジョージ

※ネタバレ有り


サム・ペキンパーの名作である。
1971年製作なので、46年前ということになる。

舞台は、イギリスの片田舎。
天文物理学者のデイビッド(ダスティン・ホフマン)はアメリカの喧噪を離れ、
研究に没頭するため、若い妻と、妻の故郷で暮らすことにする。
妻は、まだ子供っぽいが、セクシーな魅力に溢れ、男なんてどうとでも扱えると思っている。
デイビッドは、世間知らずのインテリで、気がよわそうだ。
二人が、派手なオープンカーで村に乗り付けると、
かつて妻と付き会っていたという噂がある、
がたいのいい若い男が現れ、ちょっかいを出す。
しかし、デイビッドは気にする風もない。

この冒頭から、この映画には不穏な空気が充満している。
若く美しい妻と頼りない夫、
そして妻を狙うならず者たち、という構図。

デイビッドは家のガレージを修理するために
4人の村の若い奴らを雇うことにする。

彼らの妻を見る露骨な視線、
頼りないデイビッドの態度、
飼い猫が殺されるという事件が起きながら、
毅然と対応しない夫に不満を募らせる妻。

不穏な空気はどんどん膨張していく。

そして、デイビッドは若い奴らを御することができずに、
いいようにあしらわれ、狩りを口実に連れ出され家を空けたときに
妻はレイプされてしまう。

それをデイビッドにいえない妻。

心に葛藤と苦悩をかかえた妻とデイビッドは
パーティにでかけ、帰り道に発達障害を持った若者をひいてしまう。
医者が来るまでの間、家で休ませる事にするのだが、
実はその男は人を誤って殺しており、その被害者を捜す家族から追われていた。
男の引き渡しを求めて押し寄せる5人の荒くれ者の家族。
その中にはレイプ犯もいる。

デイビッドはそれを拒否するのだが、
仲裁にやってきた判事を無法者たちが殺してしまい、
一気に暴力は加速する。

家に立てこもり、彼らと相対するデイビッド。
事態はエスカレートし、生きるか死ぬかの戦いへと変貌していく。
同時に覚悟を決めたデイビッド自身も、頼りなく気の弱そうな男から
なにかをなしとげられる強い男へと変わっていく。

ここからの描写の容赦の無さは、なかなかすごい。
もう、50年近く前の映画なのだが、今見ても全くぬるさは感じない。
全ての暴力は合理的で、侵入する側も防ぐ側も、
演出上の都合ではなくロジカルに行動する。
だから、緊張感は途切れることはないし、
そのリアリティもはんぱがない。

そして、長い戦いの末にデイビッドは戦いに勝利する。
気の弱い男が、暴力をものともしない強いヒーローへと変貌する、
あるいは、虐げられた者が多勢の敵に対して復讐を果たす、
そういう物語と取ることもできる。
ここには、カタルシスがあるし、爽快感もある。
しかし、かすかに残る違和感。
不穏な空気は、ここに至っても消えることがない。

ペキンパーといえば、その暴力描写が有名だ、
しかし、別にだからといって、それを賛美しているわけではないだろう。

暴力に対する嫌悪や恐怖、あるいは、暴力による支配という快感、
そのどちらも、誰でもが持っている人間としての根源的な本能のようなもの。
それを否定するわけではなく、かといって美化するわけでもなく
ただ、せきららにあるがままに見せることで、人間の業が見えてくる。

ラストで、発達障害の男をクルマで送っていくデイビッドが
「帰り道が分からない」という男の声に応えて、
「俺も、帰り道が分からない」とつぶやく。

自分の中の暴力という力を解放してしまったデイビッドが
平和的な研究者としての前の自分と変わってしまったことに対する
とまどいや怖れ、いやあるいは高揚、快感だろうか、
そんなものが、まざりあったつぶやきが、
観ている我々を、現実へと引き戻す。

50年たっても色あせない、真の傑作といものでしょう。