人生スイッチ

2014年 スペイン/アルゼンチン
 
監督:ダミアン・ジフロン
 
※ネタバレ有り
 
 
6つのショートストーリーによって構成されたオムニバス映画。
スペインとアルゼンチン合作映画らしいです。
 
ここにあるのは、シニカルでブラックで
暴力的でえぐい、なおかつすかっとする、そんなコントのような話ばかり。
たとえば、プロローグにもなっている1話目のお話は、
飛行機の機内の会話からははじまり、だんだんと乗客全員が
ある男の知り合いで、かつて、その男にひどいことをしたことがあると明らかになっていく。実は、その男がその飛行機を墜落させて全員に復讐を図る、というお話。ラストは、その男が恨みを持っていた両親らしき家に飛行機が突っ込むところで終わる。
 
 
こんな感じの、復讐とかしかえしにまつわる話がこれでもかと展開される。
ラテン気質ゆえなのか、まったく容赦がなく、かつエキセントリック。
この過剰で、途中で終わらせることをよしとせず、
最後の最後まできっちりカタをつける感じは日本人にはないものかもしれない。
日本人なら、もっとあいまいで余韻を残したまま、まとめる気がする。
そして、すばらしいことに、この切れ味とテンションが全く落ちない。
だれることが一切なく、最後まで一気呵成に進むという、クオリティの高さ。
 
それぞれの話にはタイトルがついていて、第一話は「おかえし」というタイトル。
「おかえし」というよりは「しかえし」だろうと思うのだが、
そこまでいうとネタバレなので、まあ「おかえし」でいいのかと。
原題はどうなんだろうと調べてみると「パステルナーク」。これは、男の名前ですね。まあ、これは、原題でもいいし、邦題も悪くないかもしれない。
 
ちなみに、映画のタイトルの原題は「野蛮な話」とか「けだものの話」というようなニュアンスらしい。それだと、あからさますぎて、ちょっと微妙。
それなら邦題の「人生スイッチ」の方が良いかもしれないですね。
 
個人的に好きだったのは、最初の「おかえし」と最後の「ハッピーウェディング」。「ハッピーウェディング」は、タイトルから想像される通りに、
結婚式での血みどろな修羅場が、これでもかと、もうしつこいくらいに展開される。そして、全てをやり尽くした後に訪れるハッピーエンドは、なかなか趣深い。
 
海外の様々な映画祭では好評を博し、アルゼンチンでは空前の大ヒットを記録したとのことであるが、日本の評価を見ると、そこまでポイントは高くない。
結構、好き嫌いが分かれれる作品なのかも。
えぐい映画、ひきずる映画好きの私としては、二重丸でした。

 

シン・ゴジラ

2016年 日本

監督:庵野秀明

出演:長谷川博己石原さとみ 他


余計な物をそぎ落とした、シンプルな物語だ。
人智を超えた事象が起こり、それにどう対応するのか、それをリアルに追求している。ただ、シンプルなだけに、いろいろな解釈や楽しみ方が可能になる。
災害シミュレーションムービーだったり、政事劇だったり、
あるいは、ゴジラを神と考えるなら、その出現の意味だったり、
また、どこまで映画がリアルかというディテイルのこだわりだったり。
多層的な魅力にあふれている映画である。

初代ゴジラは、原爆の恐怖の象徴であった。
では今回のシン・ゴジラは、なにかといえば、3.11の象徴なのだろう。
3,11とは、人間の営みをあざ笑うかのような圧倒的な自然の力であり、
また原発事故という人災により、さらにその被害は増幅されるとともに
世界に対して加害者となる可能性も生まれた。
被害者のはずが、いつのまにか加害者になってしまうという二重性、
日本人が抱えてしまったその潜在的な恐怖がシン・ゴジラでも核となっている。
ただの被害者のはずが、いつのまにか世界を敵に回すことになる恐怖。
だから、この映画では、敵がころころと変わる。ゴジラから、米国、世界へと。

たとえば、ゴジラが火を噴くシーン。
米軍の高性能爆弾で血を流し、うずくまるゴジラ
そこで、ゴジラはまるで嘔吐するように、火を吐く。
そして、その吐瀉された火は先鋭化し、ビームとなる。
ビームは、あらゆる物を破壊し、ゴジラは無敵の存在へと進化する。
ゴジラのビームは、怒りであり、なにかの衝動だ。
それは、誰の怒りなのか。
この辺の衝動の発露の描き方は、秀逸だ。庵野監督の面目躍如というところ。
ここだけをとれば、エヴァのよう、という評価もうなづける。
まあ、エヴァは、自虐とそれに対する怒りの衝動だけで成り立っているかのような話であるが。

しかし、このゴジラは、そこから自虐や絶望や破滅に陥ることはなく
きちんと物語として終息していく。エヴァとは違うのだ。

その終息のしかたは、かなりファンタジーで、
こんなに政府が機能するのなら、今の日本のていたらくもないだろうし
3,11の時の無様な対応もなかったろうと思うが
ドラマとして考えれば、かなり面白く観ることは出来たし
素直によくできたストーリーとほめるべきかもしれない。

いろいろな人が語っているのを目にするが、何かを語りたくなる映画という一事をとってしても、近年の日本映画には珍しいできばえであることは確かだ。

なんやかやいっても、日本人はゴジラ好きなんだろう。

スキャナー・ダークリー

2006年 アメリカ

監督:リチャード・リンクレイター

出演:キアヌ・リーブス

※ネタバレ有り


原作は、P.K.ディックの傑作小説。
ドラッグ中毒をテーマとした、痛々しくも切ない話。
昔、サンリオ文庫で読んだはずはのだが、
ストーリーはあまり覚えていない。
ただ、切なさだけが印象に残っている。

それの映画化ということで、きっと暗くて儺難な映画なんだろうなあと
思っていたのだが、意外と見やすい映画だった。

全編が、フォトショップでダスト&スクラッチをかけて
輪郭線をつけたような、つまり、半分アニメのような画面。
それによって、現実と幻覚との境界がより曖昧になると同時に、
ある種のカリカチュアというか、寓話的なニュアンスを帯びてくるので
よりシニカルさが際立ってくる。
だから、主人公に過剰に自己投影することなく普通に見ることができる。
そうでなければ、結構辛かったかも、とも思う。
ちゃんと撮影してから、加工しているのでかなり手間はかかったらしいが。

ストーリーは、麻薬の囮捜査を行う捜査官が主人公。
捜査対象の仲間になり関係するうちに彼自身もだんだんと中毒になり、自分を見失っていく。やがて目的がなんだったのか、自分自身が何者なのか、なにもかもが曖昧になるなかで、彼は脳に障害をきたし更生施設に入れられることになる。
しかし、それすらも、当局の計画であり、廃人にならないと潜入できない
更生施設での麻薬生産の陰謀を暴くための作戦だった。
つまり、彼は、自分でも知らされぬまま
廃人になることで囮となるという役割を負わされていたのだ。

組織の非人道的な論理という大きな流れの中で、翻弄され、そして自分を見失う主人公。しかし、そういう陰謀論よりも、ここにあるのは、もっとパーソナルで根源的なこと。社会の中で自分の存在を肯定できない主人公の苦悩だ。
そのどうしようもない苦悩ゆえに、ドラッグにはまり、そこから抜け出すことが出来ない。それが、わかっていてもどうすることのできない、ゆるやかな絶望。
それは、おそらくディック自身の絶望なのであろう。

という、とっても暗い話なのだが、物語の多くの部分は
ジャンキーたちのたわいもない、馬鹿な会話によって成り立っている。
一人が買ってきた18段変速の自転車のギアが、前に3つ後ろに6個の9つしかないじゃないか、おまえ、だまされたんじゃないのか、というくだりは、とってもばかばかしくて面白い。

ラストで、脳の機能を失い無垢な存在となった主人公が更生施設で描かれる。
晴れ渡った空の下、麻薬が栽培されている広大な畑の中で主人公は農作業に従事する。彼に悩みはない。その、おだやかな表情は救いかもしれないが、
自分を破壊しなければ得られない救いは、果たして救いなのだろうか。

エンディングで流れるのは、トム・ヨークの「ブラックスワン」。
あまりに、似合いすぎててびっくりするくらい。

主演のキアヌ・リーブスは、とてもよかった。

エレファント・ソング

2014年 カナダ
監督:シャルル・ビナメ
出演:グザヴィエ・ドラン
 
※ネタバレ有り
 
 
いまをときめく、グザヴィエ・ドランの監督作ならぬ出演作。
なんでも、脚本を読んで、この主人公は自分のことだと、出演を熱望したらしい。
 
それだけに、彼の演技というか存在感はとても光っている。
彼が演じるマイケルの、いたずらっこのような無邪気さと才気、
それでいて全てに絶望しているような虚無感、なにかを訴えようとする必死さ。
そんな彼のくるくる変わる表情を見ているだけで、だんだんと引き込まれていく。
 
話は精神病院を舞台にした心理サスペンスミステリーとしてはじまる。
失踪した男性の主治医の行方を患者であるマイケルが知っているのかどうか、
院長がマイケルから話を聞くという真相究明を軸に、話は進むのだが、
だんだんと、マイケルという人間そのものの謎解きへと物語は変質していく。
 
マイケルがするたわいもないゾウの話、彼が真相を話すのとひきかえに出す条件、
また、失踪した医師は性的なハラスメントを受けたという告白。
どこまでが冗談で、どこから本当なのか分からない話の中に、だんだんとマイケルの真実が、浮かび上がってくる。
 
有名なオペラ歌手だった母親の一夜のアバンチュールの結果生まれた
望まれぬ子だったこと。父親とは一回しか会ったことがなく、
それもゾウのハンティングにつきあわされるという、最悪の経験だったこと。
涙を流しながら死んでいくゾウを見て、おかしくなったこと。
母親からは、愛されたこともなく、ゾウの数え歌を歌ってもらったことが
唯一の暖かい思い出であること。彼女の自殺を救急車を呼ぶこともせず、見守ったこと。そのせいで、精神病院にいれられたこと。
失踪した医師のことを愛していること、それが、いままでではじめての愛であること。そして、今の状態を変えたいと思っていること。
 
いままでの、無意味だった話や、行動がつながってくると同時に
その裏にあるマイケルの絶望が、見えてくる。
 
やがて、失踪した医師が実は、家族の急病のために
帰省したただけということが分かるのが、
マイケルの出した条件や、このやりとりが全てマイケルが自殺をするための
トリックであることが明らかになる。そして、その企ては成功し、
必死の救命のかいなく、マイケルは死んでしまう。
 
数日後、マイケルの主治医は、院長の問いかけに対し
マイケルのことを愛していたと淡々と告白する。
そして、院長は、病院を辞め、自分の本当に生きたい人生を生きることにした、
らしいところで映画は終わる。
 
この映画は、まなざしがあたたかい。
結末は悲しいけれど、そこには絶望ではなく、救いと愛があふれているように思う。

 

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

2014年 アメリカ
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
出演:マイケル・キートンエマ・ストーン

※ネタバレ有り


リーガンは、ヒーローものの「バードマン」シリーズで
一世を風靡したものの、その後ぱっとせず、
かつてのバードマン俳優として、うらぶれた人生を送っている。

その状況を脱すべく、ブロードウェイでの劇作家&演出家として
再起を図ろうとするのだが、しかし、主演俳優には、ばかにされ、
評論家には、けちょんけちょんにけなされ、さんざんだ。

映画は、リーガンがベッドの上に浮遊し、瞑想するシーンからスタートする。
そして、その後も、物を手を使わずに動かしたり、破壊したり
超能力があるように描かれていく。
それが、本当なのかそれとも単なる妄想なのかは
映画の中では明らかにされないので、最初は、え、どっち、ととまどうのだが
話が進む内に、どうも単なる妄想、あるいはリーガンの心象風景を映像化しただけ
ということがなんとなく分かってくる。
しかし、そこが、曖昧であることが、映画を微妙に落ち着きの無いものにしている。というか、妙に青臭いものに。
いい歳をして、かつての栄光が忘れられず、
プライドを捨てることも出来ず、今の境遇に満足することも打破することもできずに、中途半端に生きているリーガンの、心の叫びがその超能力というかたちで噴出している。

「俺はこんなもんじゃ、ないんだ!」という想い。
それは、「俺はまだ本気を出してないだけ、本気を出せば、なんだって出来る」という中二病の若いやつと全く変わりがない。

そういう、いごごちの悪さを抱えながら、話は進むのだが
あまり状況は好転しない、というか、最悪の結末にむかって進んでいく。

リーガンは、舞台の上で、自殺シーンにかこつけ、本当に自殺を図る。
そして、そのことを「無知がもたらす予期せぬ奇跡」と評論家に言わせしめるるのだがそんな格好いい物ではない、ただの自殺未遂だ。

ラスト、リーガンが休むホテルの1室、
ベッドの上にリーガンの姿がない。心配した娘は、開いていた窓をおそるおそるのぞく。しかし、下には、なにもないようだ。そして、上を見あげ、何かを見つけたように微笑むのだ。

その微笑みに救いがあるか、というとそういうわけではない。どういおうと、自殺未遂の男がこんどは本当に飛び降り自殺をした、ということでしかないし、その自殺の理由も、ひとりよがりのものにしか思えない。

ドラムオンリーのBGMとか、長回しで全てがつながった凝りまくった演出とか
みどころは、満載なんですけどね。

ジョゼと虎と魚たち

日本 2003年

監督:犬童一心

出演:妻夫木聡池脇千鶴

※ネタバレあり

 

生まれつき足が不自由で歩くことのできない女の子と
大学生とのラブストーリー、ではあるのだが
よくある難病物のかわいそうな女の子の話ではない。

女の子は、歩くことができず、貧乏長屋に祖母と二人暮らしだ。
だから、でかけることもあまりなく、拾った本とテレビでしか、世の中のことを知らない。で、たまたま読んだサガンの小説の主人公が気に入り自分のことをジョゼと呼んでいる。
ちょっと、変わっているのだ。
顔は人並み以上にかわいく、自分でもそのことは知っている。
しかし、境遇が境遇なだけに、だからどうなるものでもない、ということも知っている。そして、夢を持つことを注意深くさけながら暮らしていたのだ。

しかし、そこに現れる、ちょっとちゃらんぽらんな大学生、恒夫。
恒夫は、このちょっと変わったジョゼが気になり、恋に落ちる。

そして、祖母がなくなったことをきっかけに、二人は一緒に暮らし始める。
ジョゼの目を通して見る世界は全てが新鮮だ。
タイトルにもなっている、動物園に虎を見に行くシーン。
ジョゼは、虎が死ぬほど怖いという。そして好きな男ができたら見に来ようと思っていたと。なぜなら、虎がいくら怖くても、そばに好きな男の人がいれば耐えられるから。

このままごとのような世界は、しかし、常に終わりを意識した世界でもある。
ジョゼにとっても、恒夫にとっても。
いつまで続くかは、分からない、というか、いつかは終わるだろうことを
あえて考えないようにした、こわれもののような世界だ。

しばらく後、既に就職もしている恒夫は、そろそろどうにかしないとと考え始める。そして、ジョゼを実家つれていくつもりで出かけるのだが結局ふんぎりをつけることができずに、ジョゼは、それを当たり前のこととして受け入れる。
それは、最初で最後のふたりだけの旅行になり、
終わりの予兆を感じながら、無邪気にはしゃぐ二人の姿は美しくも痛々しい。

そして、二人の恋は終わり、恒夫はジョゼの家をでていく。
しばらくして、ジョゼが原付タイプのクルマ椅子にのり買い物に出かけていくシーンになる。格好も、前より大人っぽくきちんとしている。そして家にもどり、一人前のご飯を作る。と、ジョゼが独り立ちをし始めたところで映画は終わる。

ああ、だから、これは、特殊な状況にある男女のラブストーリーではなく
恋という魔法が解けて、大人への階段をのぼった、ひとりの女の子の話だったんだと、気づく。

キャストは、池脇千鶴妻夫木聡
なんとっても、池脇千鶴がいい。彼女のための映画といってもいいくらい。

ロング・グッドバイ

1974年 アメリカ

 監督:ロバート・アルトマン

 出演:エリオット・グールド

 

かなり昔、一度見ているはずだし、原作もかなり昔に読んでいるはずなのだが、
話しはほとんどおぼえてなく、今回ほぼ初見状態。
今回、印象に残ったのは、冒頭の猫と、マーロウのペントハウスの隣に暮らしている女たち、そしてマーロウをおどすヤクザ。

猫は、かなりの尺を使っているが、猫好きにはあるある、というかよくある話。
アメショーとかじゃなくて普通の茶虎ってところがいいのかもしれないが
猫好き以外には、どうでもいいエピソードなんだろうな。
「ケンガイ」というマンガに、ロンググッドバイに出てくる猫は今どうしているんだろう、みたいなどうでもいいくだりがあるのだが、ああ、これがその猫かと。監督は猫好きなんだろうな、きっと。

女たちは、当時のヒッピームーブメントの影響を受けているのか
トップレスでヨガ?かな、で集団生活というその不思議な生態が、とっても妙。
ジャックニコルソン主演の「さらば冬のかもめ」に出てくる妙な日本の宗教とかもそうだけど、全くストーリー上の必然とかはなく、ちょっと変わった匂いを持ち込むだけだったものが、今見るとすごく変というのは、それはそれで、映画としての味なのか?どうなんだろう。

で、マロウをおどすヤクザですが、全く意味不明かつ唐突に自分の彼女の顔を破壊して病院送りにしたり、マロウをおどすために、手下も自分も裸になったりと、もうめちゃくちゃ。「パルプフィクション」とかはまだ、理屈の通じるヤクザたちだったけど、こういう意味不明で不条理な怖さと、それがかもしだす何ともいえないコミカルさとの、どっちに転ぶかわからない不安定さが絶妙。
この辺ののりは、デビッド・リンチの「ブルーベルベット」に出てくるデニス・ホッパーとか北野映画に通じるものがあるかも。

話は、実に王道のミステリー。自殺したはずの親友が実は生きていて、真犯人だったという。ラスト、その友人を、マーロウが躊躇なく撃ち殺すのが、ちょっとビックリ。確かに、法律上は既に死んだ、いないはずの人間ではあるけれど。
そんなに、あっけなく撃つのかいって、思わず突っ込みそうになる。
いやでも、アルトマンだし、名作だし、これくらい、あっさりしていた方が、
余韻がのこり、映画世界が楽しめるかもしれないな、と。
全てが分かりやすくて、きれいに収まっているだけがいい訳じゃあ、ないし。