聖なる鹿殺し

2017年 イギリス・アイルランド

監督:ヨルゴス・ランティモス
出演:コリン・ファレルニコール・キッドマンほか

※ネタバレ有り。


まずタイトルが意味不明であるが、どうもギリシャ神話が元になっているらしい。
トロイ戦争の英雄が、神様の寵愛する鹿を殺してしまい、
自分の娘を生け贄に差し出すよう強要され、それを実行するというお話。
相手は神様なのだから、どんな理不尽なことも受け入れるしかない、という悲劇だ。

なので、タイトルは、聖なる「鹿殺し」ではなく、
「聖なる鹿」殺し、なんでしょうね。
そういう意味では、「聖なる」が黒字になり「鹿殺し」が赤文字で表現された
この映画のチラシは、デザインのミスなんだろうと思う。
デザイナーはともかく、担当者がチェックしなかったのはいかがなものか。
と、そんな話しはどうでもいいのだが、この違いは意味合いとしては、結構違う。

飲酒して手術したことにより患者を死なせてしまった外科医は、
罪の意識から、その患者の息子である少年の世話をしていたのだが、
その少年は、だんだんとストーカーのように外科医やその家族ににつきまとう。
そして、外科医のまだ小さな息子が、原因不明の病で歩けなくなったとき、
少年は、外科医にこう告げる。
「私の家族を一人殺したのだから、あなたも家族を
一人犠牲にしなければならない。そうしないと家族全員が死ぬ。
まず食欲がなくなり、次に足が麻痺し動けなくなり、やがて目から血を流し、
死に至る。誰か一人を犠牲にすれば、全ては元に戻る」と。
そして「しかし、あなたは死ぬことはない」と付け加える。
これが、この物語のルールだ。
そして、そのルールどおりに、事態は進んでいく。

原因は、外科医のずさんな手術にあったのだから、
ある意味、復讐されてもしかたのない側面もある(物語的には)。
その復讐の矛先が、外科医ではなく家族に向かったとしても
まあ理解できないこともない。

しかし、この話は、そういう人智の及ばぬ理不尽さに
振り回される悲劇というだけではなく、
原因を作った男が逆に家族の生殺与奪の権をもってしまう、
と力関係が逆転するところが肝。

全ての経緯を知った家族は、最初は、原因を作った父親に文句をいいまくる。
なんで、私たちがこんな目にあうのか、なんとか解決しろと。
外科医も、家族を危険にさらしてしまったことに、激しく悩む。
しかし、いくら文句をいっても何も変わらない。
結局ルール通りに誰かが死ぬしか解決の方法がなく、
それを決めるのは父親だ、ということに気づいた家族達は、
自分が犠牲者に選ばれないように父親に媚を売り、命乞いをする。
妻は、「一人選ぶなら子供」だと、「死んだら、また作ればいい」と。
息子は父親に注意された、のばしていた髪をを短く切り、反省の弁を述べる。
娘は、しおらしく「私が犠牲になる」といいつつ、
ひとりで逃げ出そうと画策する。
そして父親は、ある種の威厳を取り戻していく。

この立場の逆転からあぶりだされた、人間の弱さ、醜さ、自分が助かる為なら
たとえ、家族であっても裏切るという身勝手さ、しぶとさ。
そんなものが入り交じり、物語は重層的なものになっていく。

最初は、サイコホラーかという展開だが、
だんだんと神話のような象徴性をまとっていく。
ある種の思考実験ではあると思うが、この映画が、
そのように図式的であるにもかかわらず、
人間ドラマとしての深みを失わないのは、
人間の身勝手さを否定しないからではないか。
人の為の行いや正直な行い=善、身勝手な行い=悪、
というような単純な価値観はここにはない。
むしろ身勝手さこそ、人間らしさだといわんばかり。
それこそが、不条理な運命に対抗する人間の力そのものだと。
図式としては、因果応報みたいな教訓的になりそうなものだが、
実は、そういうところから最も遠いところにあるのがこの映画では。

この監督の前作は、もっと摩訶不思議なルールによって支配される
「ロブスター」で、この映画の次の作品が「女王陛下のお気に入り」。
女王陛下のお気に入り」には、摩訶不思議なルールこそないものの
3人の女性の三すくみの極限状況があった。
それらの中で描かれる人間の業、それはブラックコメディ的ではあるのだが、
そこでもエゴは肯定的に描かれている。
女王陛下のお気に入り」では、3人が3人とも、エゴをだしまくる。
身もふたもない、エゴのぶつけ合い。
そこから生まれる哀しみと滑稽さ。
しかし、監督は決して彼女達をバカにはしない。
最後まで誇りと尊厳をもって描かれていたと思う。

その辺が、この監督の魅力なんじゃないでしょうか。
次回作が、とても楽しみです。

 

 

ウィッチ

2015年 アメリ
監督:ロバート・エガース
出演:アニヤ・テイラー=ジョイ、他

※ネタバレあり

かなり昔、17世紀頃、
アメリカに移植したキリスト教徒の村で、ある一家が追放される。
理由はさだかではないが、雰囲気として分かるのは、
父親も母親も人付き合いが得意ではなく
ただ、宗教的な正論だけを振りかざし、他の村人に嫌われたのだろうということ。

一家は、父親と母親、子供が5人という7人家族。
人里離れた奥地で暮らすことになり、当然のことながら生活は苦しい。
これからやってくる冬を越せるかどうかも危うい。

そんななか、まだ赤ん坊のサムが、
長女のトマシンが子守りをしているときにいなくなってしまう。
狼が連れ去ったのだと、納得しようとするが
しかし、家族の心の奥底に何かがたまる。

一家は、神を信じ、敬虔であることだけが、心のよりどころだ。
キリスト教の教義に忠実に、お祈りはかかさず、
子供たちにもその教えを暗唱させる。

しかし、母親は短気でなにかとトマシンにつらくあたるし、
そんな妻にきちんとものが言えない父親。
父親は妻の大切にしていた銀のコップを無断で売ってしまい、
それを長女のせいだと妻が糾弾を始めたときに何の説明も弁護もしない。

敬虔であるからといって、善良なわけではない。
むしろ、信仰は何かを維持し支配するための手段となっているのかもしれない。

だから、そのずるさを悪魔につけ込まれる。

やがて、トマシンが魔女ではないかという疑念が生まれ、
トマシンは孤立し、息苦しさが全体を支配していく。

トマシンの唯一の味方だった弟が死ぬとともに、
家族のなにかが崩壊し、惨劇が起こる。
そして、トマシンは悪魔の側へと堕ちていく。

しかし、そこにあるのは絶望ではなく、解放だ。
悪魔の世界は官能的で美しく、
息苦しさから解放された喜びに満ちあふれている。

そして、観ている我々も、
トマシンが、解放されたことにほっとする。

本作に描かれるのは、ある種、正悪の逆転した世界なのだが、
悪魔の世界とは、少女の官能が解放された世界であり、生の喜びにあふれていて、
逆に信仰に支配された家族の世界は、全てが抑圧され、
偽りに満ちたまがいものの世界。
だから、自分の官能性を自覚した少女は、悪魔の世界、
つまり真実の世界へと旅立っていく。

ところで、このトマシン役の女優さんがなかなかいい。
逆境に耐えるかよわさ、というよりは強さや
その奥のファナティックなものが、ほのかに見える感じがいい。
冒頭近くで、赤ん坊に「いないいないばあ」をするシーンがあるのだが
そのシーンが、もう既に危うさを孕んでいて不穏だ。

 

裁かれるは善人のみ

2014年 ロシア

監督:アンドレイ・ズビャギンツェフ

出演:アレクセイ・セレブリャコフ、他

※ネタバレあり

 

ロシアの海沿いの街で、自動車修理工のコウリャは、
美しい妻と息子と暮らしている。
しかし、妻は後妻で多感な時期の息子とは折り合いが悪い。
そんな中、コウリャは家と土地を再開発をすすめる強欲な市長に
奪われそうになる。

そこで、友人の弁護士をモスクワから呼び寄せるのだが、
なんということか、その友人と妻は不倫関係に。
そして、友人は、市長一派に脅されあっさりとモスクワに引き上げ
ますます息子と折り合いが悪くなった妻は家を出て行ってしまう。

その後、妻は誰かに殺されたことが明らかになり、
コウリャはその罪を着せられることに。

コウリャと息子、そして妻の気持ちのすれ違いは
すれ違いのまま、断絶は拡大し、そこに市長の陰謀がからんでいき
これでもかという悲劇がコウリャを襲う。

無実を主張するも、コウリャは投獄され、
その裏で市長はのうのうと再開発をすすめるという不条理。

妻の死が明らかになる前、いなくなった妻を想い、
飲んだくれるコウリャに神父が「ヨブ記」を語るシーンがあるのだが、
本作は「ヨブ記」がアイデアのもとになっているらしい。
ヨブ記」は神の試練と、試練を与える不可知の神に対して人はどう信仰心を
持ち続けることができるか、という内容だったかと思うが、
しかし、コウリャを襲う悲劇は、神の試練というよりも
この世界にぽっかりと空いた虚無のように思える。

かっこつけただけであっさりと尻尾を巻く友人弁護士と
妻のあまりにも軽い不倫、
軽薄で凡庸な悪の象徴のような市長、
後妻の気持ちを考えることができずに、ただ自分の不満をわめき散らす息子。
それらのあまりな軽さと比較して、
ここにある虚無は、寂れた海岸の荒涼とした風景のようにとても深い。

英語のタイトルは「リヴァイアサン」。
旧約聖書に出てくる怪物のことであり、
国家をその怪物にたとえたホッブスの著書のタイトルでもある。
しかし邦題は、ちょっとひどい。
「裁かれる」って、映画はそんなことひとつも語っていない。
そんなことは邦題をつけた人の主観にすぎないし、そのことによって、
映画を見る人にいらぬ先入観を持たせることになる。
センスの問題ではなく、最悪の邦題かと。

現に筆者は、この邦題によって、しばらく本作を見る気になれなかった。

 

 

 

 

 

岬の兄妹

2019年 日本
監督:片山慎三
出演:松浦裕也、和田光沙、他

※ネタバレあり!


笑っちゃうくらいの貧困のお話。

日本のどこかの海沿いの地方都市。
ヨシオは、片足に障害を持っているために、造船工場をリストラされる。
彼は、知恵遅れの妹マリコと二人暮らしだ。
リストラされたとたん、二人はあっという間に貧困に転落する。
底辺の貧困だ。
働き先もなく、電気料金も支払えずに止められる。
食べるものもなく、ホームレスとゴミを奪い合う。
友達には、金を借りまくりいやがられる。
ヨシオはしようがなく、妹を使ったデリヘルを始める。
相手は、いろいろだ。
老人もいれば、小人の障碍者もいる。
しかし、知恵遅れのマリコは嫌がらない。あっけらかんとしている。
むしろ、「オシゴト、する」と、積極的にやっている風もある。
マリコだって、いい歳をした娘なのだ。性欲だってある。
その、あっけらかんとしたマリコに救われ、
ヨシオは、さほど良心の呵責に苛まれることもなく、それを続ける。

普通に考えれば、それは最低の生活なのだが、
画面にはそれほどの絶望はない。
むしろ、絶望する暇もないほどただ生存本能にしたがうだけの彼らの姿は
たくましくもあり、妙な明るさと笑いが感じられる。

しかし、その生活は、マリコが妊娠したことによって終わりを告げる。
あるいは、誰彼かまわず、マリコが「オシゴト」を誘うようになったからか。

その後、ヨシオは昔の知り合いの頼みで復職することになる。
マリコは、堕胎し、生活はまた以前のものに戻ったようだ。

そして問題のラストだ。
復職し、元の生活に戻ったヨシオは、
家を勝手にでてしまった、マリコを探す。
ヨシオは、海辺の岩の上に立つでマリコを見つける。
なんで、そんなところに。
いぶかしがるヨシオの携帯が鳴り、不審な表情に。
振り向くマリコは微笑む。

ヨシオの電話がなんだったのか、マリコの笑顔の意味が
なんだったのかは明らかではない。
しかし、その微笑は観ている我々に刺さる。
その目は、まるで全てを見通しているようだ。
それは、既に知恵おくれの娘のものではなく
この世のものではないようにさえ思える。
安閑とこの映画を楽しんでいた我々に向けての笑顔のようで、
何かを問われている気がしてしまう。

この映画では、生きるためのあらゆることが肯定される。
ゴミをあさることも、知恵おくれの娘が売春することも、
一人暮らしの老人や障碍者が買春することも、
チンピラと戦うためにひりだしたウンコを投げることも。
だから、我々は、衝撃を受けながらも、
ある種、安心して、エンターテイメントとして
この映画を観ることができる

その安心感に、最後の最後で
冷や水を浴びせられたような、そんな怖さだろうか。
余韻が、いつまでもじわじわと来る。

イット・フォローズ

2014年 アメリ
監督:デヴィッド・ロバート・ミッチェル
出演:マイカ・モンロー

※ネタバレ有り!


せつない青春ホラーです。

女子高生のジェイは何かに取り憑かれてしまうのだが、
その正体は不明だ。
ただ、歩いてジェイに近づいてくる、
決して素早いわけではないがそれに捕まると殺されるらしい。
歩いてくるだけだから、逃げるのは容易なのだが、
しかし、いつそれがくるのか分からない、という恐怖。
(ゾンビもどんどんスピードアップしていく昨今にあって、
このゆっくり近づく恐怖というのは、なかなか新鮮だ。)

なぜ、そんなものに取り憑かれたかというと
ボーイフレンドのヒューとセックスしたからで、
ヒューは、自分からジェイにそれを移し替える為に
セックスをした、ということらしい。
そして、ヒューは「何か」がどういうものかをジェイに伝え、
そのまま行方をくらます。

この、「何か」のルールは、
1:必ず歩いてくる
  だから、車で逃げると時間を稼ぐことができる
2:取り憑かれた人間にしか見えない
3:しかし、物理的存在で、見えないが触ることはできるし、
  ドアを開けないと入ることはできない。
4:銃でダーメジを与えることはできるが、すぐ復活する
5:いろいろな人に姿を変える
そして、
6:セックスをすると、相手に移し替えることができる
7:移し替えても、その人間が死ぬとまた自分に戻ってくる

ということのようだ。

しかし肝は、6の「セックスをすると、
相手に移し替えることができる」というところにある。
この項目があるがゆえに、この映画はせつない青春映画となった。

ジェイには、幼なじみで、ずっとジェイのことが好きだったポールがいる。
ポールは、ジェイを救いたいと思う。
それはジェイとセックスするということだ。
ある意味、大手をふってセックスする理由が訪れたわけだが、
しかし、そこには自分の命が危うくなるというリスクもある。
そして、たとえ、自分の命よりもジェイを救いたいと思っていたとしても
こんなときに、それを言い出すのは、それはそれで勇気がいる。

そうこうするうち、何かは現れ続け、
友人たちはジェイを救うために、別荘に非難したり、
退治しようと試みるのだが結局はうまくいかない。
何かは、死なないのだ。

にっちもさっちもいかなくなったジェイは、ポールとセックスする。
しかし、それは、自分が助かるために
ポールに何かを移し替える、というだけではない。
おそらくポールの純粋な思いが伝わったたから。

ラストで二人は、手をつなぎ一緒に歩いていく。
その後ろを何かがついてくるのが、かすかに見える。
それが、この後の悲劇を象徴しているのか
それとも、その何かと闘い、二人で生きていくという
覚悟を決めたということなのかは分からない。

昔、「君のためなら死ねる」というセリフで有名な
「愛と誠」という漫画があったが、この映画は、その思いが届いた瞬間で終わる。
その先どうなるかは、二人にとってどうでもいいことだろう。

ホラー映画としては、バッドエンドなのかハッピーエンドなのかは不明。
けど、どちらかというとバッドエンドの匂いが強い。
しかし、青春ラブストーリーとしては、ハッピーエンドだ。

ブレア・ウィッチ・プロジェクト

1999年 アメリ
監督:ダニエル・マイリック、エドゥアルド・サンチェス
出演:ヘザー・ドナヒューほか

超有名な映画だし、POV(主観映像)ホラーの元祖のような作品。
公開当時、面白い、すごい、という声をよく聞いた気もするが
所詮アイデア映画なんでしょ的な思いもあり、
結局観ないまま、今に至るのだが、ようやく観た。

で、感想としては、「え、結構すごいじゃない」
「もっと早く観ておけばよかった」である。

いや、実に怖い。今まで観たホラー映画の中で一二を争う怖さかもしれない。
WEBサイトで、ホラー映画のランキング的なものはよくあるのだが、
実は本作は、それほど評価が高くない。
映画の評価なぞ、ひとそれぞれではあるが、
この評価の低さはいかがなものであろうか。

POVとかフェイクドキュメンタリーというところに、目が行き過ぎて
その本質的な怖さにあまり意識が向いてないのではとさえ思わせる。

で、この怖さは、いったいなんなのだろうか。
たとえば、平山夢明の怪談話とかホラー小説の持っているような気持ちの悪さ。
悪意を持った得体の知れない何かが、ざわざわしている感じ。
特定の何者かではない、ユングの集合無意識ならぬ、集合悪意のようなもの。
そういうのが、にじみ出てくる感覚。

数人の人間が、何かを話ているが、何を話しているかは分からない。
ただ、その気配だけがある、というような。

ストーリーはシンプルだ。
魔女伝説のドキュメンタリーをつくるために三人の若者が森の中に入っていく。
それは、どちらかというと、そんなもんある訳ないじゃん、という前提の
遊びの延長線上のもの。首謀者の女の子は、それでも半分まじなのだが、
二人の男の子は、完全に遊びだ。
だから、準備もおざなりで、いい加減な気持ちで森をうろつき回り、
結果として道に迷ってしまう。

すぐ、戻れるだろうという甘い気持ちは、
一日二日と森をさまよううちに、いらだちと焦りに変わっていく。

そして険悪な空気は、精神の不安定さを生み出し
それとともに、まわりでは、まるで、彼らが弱るのをまっていたかのように
何かが常にざわざわするようになっていく。

決定的なものは、ここにはなにも映らない。
ただ、彼らの撮影するビデオに録音されたノイズなのか声なのか
よくわからないざわめきと、
険悪になっていく彼らの会話だけで映画は成り立っている。

しかし、それだけなのだが、
彼らがだんだんとまともな思考ができなくなり、
生きる気力を奪われていく過程が、克明に描かれていく。
そして、後半になるほど、殺伐とした暴力性のようなものが溢れ出し
怖さは増幅していく。

POVというよりも、ビデオのざらついた映像と音そのものが、
どこまで現実なのかビデオのノイズなのか判然とさせずに、
この異様な空気感を生み出したのだとは思う。
しかし、その後作られた多くのPOV、フェイクドキュメンタリー映画
どれひとつとして、ここまでの空気感を作り出していない。
本作は、決してPOVというアイデアの勝利だけではない、
集合悪意のようなものを描き出したというところで、
ホラーの本質に非常に近づいた、ホラー映画史に残る傑作と思う。

 

 

 

 

 

ゲットアウト

2017年 アメリ
監督:ジョーダン・ピール
出演:ダニエル・カルーヤ、アリソン・ウィリアムズ他

ニューヨークに暮らす黒人カメラマン、クリスは恋人と
恋人の両親の暮らす辺鄙な田舎を訪れる。
恋人は白人で、クリスは自分が黒人であることを
ちゃんと伝えているのかと気にする。
恋人のローズは、うちの両親は進歩的だから
そんなことを心配する必要はない、と笑う。

というところで、疑念がひとつ浮かび上がる。
果たしてそれは本当なのか、
これは何かの伏線なのか、という疑念。

そして、訪れた両親宅では、
黒人であることは全く意識されず歓待を受ける。
しかし、その歓待は、いささかオーバーなのでは?
そして黒人の庭師とメイドがいるのだが、なにか応対がぎこちなく不自然だ。
母親は精神科医で、禁煙しているクリスのために催眠術をやってあげるという。

こんな風に、疑念は、ふたつ三つと増えていく。

翌日には、近隣の人を招いてパーティーが行われる。
恋人のローズは、それをいやがっている。
そして、黒塗りの車で続々とやってくる招待客。
しかし、かれらは変だ。クリスに対する態度が不自然なのだ。
徐々に、不気味さと違和感は、増幅していく。

クリスの携帯の電源を切った黒人のメイドは
クリスが詰問すると言い訳するのだが、
突然、笑顔とも泣き顔ともつかぬ表情で「ノーノーノー」と叫びだす。

疑念の数は、どんどん増え続け
そのひとつひとつが、かなり怖い。

招待客の老婦人の連れ合いの若い黒人は
フラッシュを浴びたとたんに叫びだす、「ゲットアウト!(逃げろ)」と。
果たして、敵は誰なのか?
不穏な緊張感と疑念はふくれあがっていく。

白人コミュニティに迷い込んだ、黒人という設定。
黒人差別といえば、KKK的な狂信的なイメージもあり
そういうイメージも利用しながら、
この世界は徐々にその異常な姿を現していく。
微妙な視線や、セリフ、仕草によってかもしだされる違和感。
その積み重ね方は、かなり見事だ。
この映画は、そういう細部を楽しめると、楽しさは倍増する。

なんといっても、黒人メイドの泣き笑いの表情を見るだけでも
この映画を観る価値があるのではと思う。

ちなみに、恋人のローズの家はアーミテージ家というのだが、
この名前にもなにか意味が込められているのだろうか?