ナラタージュ

2017年 日本
監督:行定勲
出演:有村架純松本純、坂口健太郎

※ネタバレ有り

松潤有村架純ということで、どうなのかなと思いつつ観たのだが
どうしてなかなか、面白かった、というか心に残る映画であった。

高校で孤立していた工藤泉(有村架純)と、
それを救う演劇部顧問の教師、葉山(松本潤)、
泉が大学生になってからの再会からはじまる官能的なラブストーリー。

泉は、学校で居場所を無くし、死を考えるほどの孤立感に苦しんでいた。
彼女に、居場所を与え、守ったのが葉山だ。
毎日のように葉山の研究室を訪ね雑談することが日課となり、
泉は立ち直っていくとともに葉山に恋心を抱くようになる。

あるとき、泉がいじめ?によりプールに制服のまま飛びこむのだが、
葉山はその監督教師にくってかかる。
「工藤は、そんなことをするやつじゃない!あんたは、ちゃんと見てたのか」と。
葉山の泉を守ろうとする気持ち、大切に思う気持ちに嘘はなく、ストレートだ。
再会後も、風を引いた泉を見舞い、献身的に面倒をみるし、
そこには、本当の好意があるように思えるのだが、
精神に変調をきたした末に別れた妻がいるからなのか、
葉山は自分の気持ちを泉に明かさない。

自分への明らかな好意を感じつつも、それを明確にしない葉山に
泉は、だんだんと囚われていく。
葉山が妻との関係をどうすべきか悩む場面で泉はいう。
「私になにか出来ることはありますか?
出来ることがあるなら、何でもします」と。

このチャンスに関係を深めたい、自分のもとに引き留めたい、と考える女の計算、
「そんなこと言っちゃだめだよ」といいながら、まんざらでもない男の気持ち。
この辺の生々しさが、清純そうな有村架純によって演じられることが、
結構ぐっとくる理由なんだろうと思う。

この映画の魅力は、その辺の見せ方がとても上手いのだと思う。

風邪をひいた泉を葉山が見舞い
リンゴのすりおろしを「あーん」で食べさせるシーン。
最初はいやがりながら、なんとなく、そのスプーンを口に含んでしまう泉。
含んでしまった後で、スプーンを受け入れたということが、
なにか淫靡な事のような気がして、急に恥ずかしくなり目をそらす。
その微妙な気持ちの動きの表現だったり。

でも、これは、役者の演技が上手いというよりも
演出が上手いのだろうと思う。
おそらく秒単位の指示に従っているだけなんだろうな、という気がする。

しかし、それを言われるがままに忠実にこなしている優等生な有村の姿が
愛する人の前でのけなげな態度とかぶる。

それがあいまって、生み出される官能。
どこまでいっても、支配と従属の雰囲気がつきまとってくる。

物語全体の骨格は、唐突な部分も多いのだが、その辺はおいといて
細かな演出を美しい映像で楽しむ映画という気がします。

余談になるが、葉山の部屋にDVDがあり、
その中に「ダンサーインザダーク」があるのを、泉が見つけ葉山に問う。
「これ好きじゃないって言ってましたよね」と。
それに対して葉山は「それは妻のものなんだ」と答える。

葉山が、まだきちんと妻と別れていなかったことを知るという場面なのだが、
それにしても、よりにもよって「ダンサーインザダーク」ってと思う。
これだけで、妻が一筋縄じゃ行かないということが分かってくる。
原作者か監督かは知らないが、結構意地悪なんだなと思いました。

獣は月夜に夢を見る

2014年 デンマーク・フランス
監督:ヨナス・アレクサンダー・アーンビー
出演:ソニア・ズー
 
※ネタバレ有り
 
 
デンマークの寒村を舞台とした狼少女の物語。
 
大人になりかけつつある少女マリーは
体に異変を感じ、病院にいくのだが、原因は判然としない。
家では、車イスに座ったきりの母親を父親と介護する毎日。
そして、母親の過去のことが、だんだんと明らかになるにつれ
自分が、ある種の怪物であるらしいことが分かってくる。
 
村人もそのことを知っているらしい。
母親も怪物であり、過去に起こした惨劇によって
薬によってその獣性を押さえているだけだということを。
 
そして、悲劇は起こり、マリーは働き始めたばかりの
魚の加工工場でも、迫害を受けるようになる。
唯一の救いは、マリーに好意を寄せるダニエルの存在。
 
しかし、迫害はエスカレートしていく。
 
マリーは、怪物であり、そのことを村人も知っている。
そして、その獣性が目覚めたことが知られたら、
もう、マリーが村で人々と共存することは不可能だ。
 
生きるために、戦うのか、それとも
好意を持ってくれているダニエルとどこかへ逃げるのか。
そして母親と父親のように、暮らすのか。
ダニエルは、そう言ってくれているが、
それは、希望なのか?
 
だから、この物語は、どこへも向かわない。
どこにも希望はなく、どこへも向かいようがない。
ただ、狼少女の獣性が本能のままに爆発し、
彼女のことを想うダニエルの愛がある。
 
この永久に閉じた世界の中で
マリーや二人の居場所はない。
ただ、その息づかいや手触り、
そして想いだけがリアルなものとして残る。
 
そんな静謐な世界にふりそそぐ、
陽の光が美しい。
 
唯一難癖をつけるとすれば、
全く世界観にそぐわない、エンドロールの歌くらいか。
 
 
 

わらの犬

1971年 アメリカ
監督:サム・ペキンパー
出演:ダスティン・ホフマンスーザン・ジョージ

※ネタバレ有り


サム・ペキンパーの名作である。
1971年製作なので、46年前ということになる。

舞台は、イギリスの片田舎。
天文物理学者のデイビッド(ダスティン・ホフマン)はアメリカの喧噪を離れ、
研究に没頭するため、若い妻と、妻の故郷で暮らすことにする。
妻は、まだ子供っぽいが、セクシーな魅力に溢れ、男なんてどうとでも扱えると思っている。
デイビッドは、世間知らずのインテリで、気がよわそうだ。
二人が、派手なオープンカーで村に乗り付けると、
かつて妻と付き会っていたという噂がある、
がたいのいい若い男が現れ、ちょっかいを出す。
しかし、デイビッドは気にする風もない。

この冒頭から、この映画には不穏な空気が充満している。
若く美しい妻と頼りない夫、
そして妻を狙うならず者たち、という構図。

デイビッドは家のガレージを修理するために
4人の村の若い奴らを雇うことにする。

彼らの妻を見る露骨な視線、
頼りないデイビッドの態度、
飼い猫が殺されるという事件が起きながら、
毅然と対応しない夫に不満を募らせる妻。

不穏な空気はどんどん膨張していく。

そして、デイビッドは若い奴らを御することができずに、
いいようにあしらわれ、狩りを口実に連れ出され家を空けたときに
妻はレイプされてしまう。

それをデイビッドにいえない妻。

心に葛藤と苦悩をかかえた妻とデイビッドは
パーティにでかけ、帰り道に発達障害を持った若者をひいてしまう。
医者が来るまでの間、家で休ませる事にするのだが、
実はその男は人を誤って殺しており、その被害者を捜す家族から追われていた。
男の引き渡しを求めて押し寄せる5人の荒くれ者の家族。
その中にはレイプ犯もいる。

デイビッドはそれを拒否するのだが、
仲裁にやってきた判事を無法者たちが殺してしまい、
一気に暴力は加速する。

家に立てこもり、彼らと相対するデイビッド。
事態はエスカレートし、生きるか死ぬかの戦いへと変貌していく。
同時に覚悟を決めたデイビッド自身も、頼りなく気の弱そうな男から
なにかをなしとげられる強い男へと変わっていく。

ここからの描写の容赦の無さは、なかなかすごい。
もう、50年近く前の映画なのだが、今見ても全くぬるさは感じない。
全ての暴力は合理的で、侵入する側も防ぐ側も、
演出上の都合ではなくロジカルに行動する。
だから、緊張感は途切れることはないし、
そのリアリティもはんぱがない。

そして、長い戦いの末にデイビッドは戦いに勝利する。
気の弱い男が、暴力をものともしない強いヒーローへと変貌する、
あるいは、虐げられた者が多勢の敵に対して復讐を果たす、
そういう物語と取ることもできる。
ここには、カタルシスがあるし、爽快感もある。
しかし、かすかに残る違和感。
不穏な空気は、ここに至っても消えることがない。

ペキンパーといえば、その暴力描写が有名だ、
しかし、別にだからといって、それを賛美しているわけではないだろう。

暴力に対する嫌悪や恐怖、あるいは、暴力による支配という快感、
そのどちらも、誰でもが持っている人間としての根源的な本能のようなもの。
それを否定するわけではなく、かといって美化するわけでもなく
ただ、せきららにあるがままに見せることで、人間の業が見えてくる。

ラストで、発達障害の男をクルマで送っていくデイビッドが
「帰り道が分からない」という男の声に応えて、
「俺も、帰り道が分からない」とつぶやく。

自分の中の暴力という力を解放してしまったデイビッドが
平和的な研究者としての前の自分と変わってしまったことに対する
とまどいや怖れ、いやあるいは高揚、快感だろうか、
そんなものが、まざりあったつぶやきが、
観ている我々を、現実へと引き戻す。

50年たっても色あせない、真の傑作といものでしょう。

ハイ・ライズ

2015年 イギリス
監督:ベン・ウィートリー
出演:トム・ヒドルストン

※ネタバレ有り

どう評価していいのか、悩む作品。
舞台は、巨大な超高層マンション
といっても、40階くらいか。
原作が書かれたのが70年代だから、
その当時のイメージとしては、超高層だったのだろうと思う。

中には、学校もスーパーもプールもあり、
外に出なくても生活できる、ある意味閉じた世界だ。
その周りでも何棟ものマンションが建設中だ。

このマンションでは、上層階と下層階で階級があり、軋轢がある。
最上階に暮らす、マンションの設計者であるロイヤル様を頂点とする
上流階級と低層階に暮らす下層民との軋轢。
最上階のパーティには、下層民は招かれず、
下層階の住人は下層階だけで集まっている。

主人公は、そのマンションの25階に入居した医師のラング。
中間的な立場からの彼の目線で物語は進む。

あるとき、その軋轢は停電をきかっけに爆発する。
そして、いったんあふれ出した、不満はとどまることを知らずに
混乱は際限なくエスカレートしていく。
人間社会としての秩序は失われ、
男たちは殺し合い、レイプ、乱交とカオスな世界が現れる。
しかし、誰も出て行こうとはしない。

どう収拾するのか、訳の分からないまま、
最後は女たちによって新しい秩序が生まれたらしいところで話しは終わる。

原作は、JGバラード。終末を描いたシリーズなどで有名なSF作家。

しかし、この作品はどこまでもシニカルだ。
英国らしいと言うべきか。
だんだんと人間が文明を失い原始人のような混沌の世界へと落ちていく
ということでは、ゴールディングの「蠅の王」なども連想させる。

あるいは、パゾリーニのいくつかの作品とかも。

しかし、本作は、そこで絶望へとは落ちてはいかない。
一定の節度?を保っている。
犬を食べるシーンからはじまり、そこから回想で話は進むのだが、
文明や理性が失われた訳ではないのだ。

ただ、表面をはぎとられた、むき出しのなにかが
提示されているではあるが、
そこに何かが、手触りのある何かがあったのか、
それとも限りなく空虚なものでしかなかったのだろうか。

節度を意識させるのは、美術の効果も大きい。
雰囲気は60年代か70年代のモダニズムに統一され
アイボリーの色調とスタイリッシュな美しさ、
それと生々しい悪趣味との対比が、キューブリックを想起させる。

あまりのカオスな展開に、ちょっとついていけない部分もあるが、
なんか、残る映画ではあった。

ケンとカズ

2016年 日本
監督・脚本・プロデュース:小路紘史
出演:カトウシンスケ、毎熊克哉、飯島珠奈、藤原季節、高野春樹、他

※ネタバレ有り

覚醒剤の密売をやっている、ヤクザ組織の末端のチンピラ二人の物語。
二人とも、もう、若いといえるほどの歳ではなく、
ひとりは子供ができて、この先どうするんだとかみさんに問われている最中で、
もう一人は痴呆症の母親を抱え、施設に入れなければと悩む日々。
もう、何も考えずに無茶ができる時期は過ぎている。
若い舎弟がひとりいるのだが、大して儲かっているわけでもなく
先行きも見えずに、ただ毎日が過ぎていくようなそんな状況。

そこで、そんなうだつのあがらない状況を変えるために
上の目を盗んで、別のルートで自分たちだけで商売を始めようとする。
しかし、それが組織の上に感づかれ、二人は破滅への道を転げ落ちていく。

と、こう書くと、よくある青春チンピラ映画、
ということになるのかもしれないが
ここには、リアルがある気がする。
無鉄砲なだけではいられない、チンピラの生活感とか、
閉塞状況のなかでも、安定と成功を求めようとする焦りとあがきとか。

この閉塞状況は、覚醒剤の密売屋という設定であるにしても
どこにでも転がっている閉塞感であり、
今の日本で生活している限り、誰にでもあるもの。

二人は、そこで行動を起こすわけだが、
その行動は、しかし、ひとつの光明ではあるのだろうと思う。

このリアルは、生々しく緊張感のあるテンポや演出にもあるのだが、
もうひとつ重要なことは、知っている役者が一人もいないこと。

それでいて、まあよくもこんなに、ピッタリの役者が
見つけられたと驚くばかりのはまり具合。
有名俳優が出ずに、キャスティングがさえているだけで
こんなにも素晴らしい映画になるって事がびっくりだ。

昨今の日本映画の、主役も脇役もみんな同じような俳優がでる状況、
特に若手は、演技の上手くもないアイドル系にしめらている状況に
うんざりしていただけに、脇役も含め知っている役者のでない映画が新鮮だった。
そして、キャスティングが、どれだけ、重要かということ、
それだけで、映画のリアリティが段違いに変わってくるということに
いまさらながらに気づかされた感じだ。

そういう意味では、今の日本映画の閉塞状況を変えうる、
一本といえるかもしれない。

ブレードランナー2049

2017年 アメリカ
監督:ドゥニ・ビルヌーブ
出演:ライアン・ゴズリングハリソン・フォード

※ネタバレ有り


いやあ、いい映画でした。
ちょっと気が早いが、今年のベストワンでもいいかもしれない。

前作の世界観を微塵もくずすことなく
さらにスケールアップした映像美にまず圧倒される。
巨大な堤防に囲まれた大都市。
終始雨に煙る巨大なビルの間を飛ぶスピナー。
タイレル社を継いだウォレス社の美しいインテリア。
廃棄物と廃墟に埋もれた、荒れ果てた郊外。
ビルの壁面を彩るエロティックなムービー。
カジノの廃墟で、映し出されるプレスリーのホログラム。
全てに隙が無く、パーフェクトな完成度だ。

その舞台で語られるのは、ブレードランナーKの
愛とアイデンティティ喪失の苦悩。
レプリカントに関するある疑惑を追うことになったK。
しかし、その謎を追ううちにKは、自分のアイデンティティの疑念と
向き合わざるを得ない状況に追い込まれていく。

苦悩するKを支えるのは、AIのジョイ。

彼女は、触れることはできない3Dホログラムだ。
最初は、そういうバーチャルなものにしか興味を持てない男の趣味として
描かれるのだが、だんだんとその関係は変化し、
本物の愛があるように見えてくる。
まるで人間同士のように。
そして、ここで描かれるラブシーンは、
その美しさとせつなさにおいて、比類がない。
映画史に残るといっても過言ではないかもしれない。

前作では、デッカードは、レプリカントとは明確には
明かされてはいなかったので、デッカードとレイチェルの関係は、
人間とロボットの、いわば禁断のラブストーリーともいえるものであったが、
本作は、ロボットとAIのラブストーリーということになる。
だから、その愛や苦悩が深ければ深いほど、
それが本物ではないという絶望が際立ってくることになる。
自分が考えていることがオリジナルではなく、
誰かの思いの複製、あるいはただのプログラムに過ぎない
という絶望には救いがない。

これは、そういう苦悩と絶望の物語。
全ての希望を打ち砕かれ、それでもなお、あがこうとする男の話だ。
ラストで、Kが地面に横たわり、
そこに雪が降り注ぐシーンが切なく、このうえもなく美しい。

Kを演じているのは、ライアン・ゴズリング
彼は、こういう報われない役がとてもよく似合う。

ブルックリン

2015年 アイルランド、イギリス、カナダ
監督;ジョン・クローリー
出演:シアーシャ・ローナン

※ネタバレ有り


思いがけず二股をかけることになってしまった女性の
心の揺らぎを描いた映画。

1950年代、アイルランドで姉と母親の三人で暮らすエイリッシュは
地味でパッとせず、ダンスパーティでも男性から声がかかることもない。
仕事は売り子で、そこの女性店主は、嫌みで詮索好きの嫌われ者。
しかし、他に働く場所もなく先の展望もない閉塞的な状況。

そんな状況を変えるため、
姉のすすめもあってニューヨークに移民として渡ることにする。
故郷を捨て、新天地を目指した訳だ。
そこでのエイリッシュはただの田舎娘だ。
デパートの売り子をするが、スマートな接客もできず
ホームシックに悩む毎日。
それが、イタリア移民の彼氏が出来て、状況は好転する。
毎日が楽しくなって、接客もうまくいくし、習い始めた簿記でも良い結果がでる。
そして、彼氏とも結婚を意識するようになり、明るい将来が見えはじめる。

そんなところに、姉の訃報が届き、
久しぶりに故郷へ帰ることになる。

故郷に帰ると、エイリッシュは垢抜けて洗練された都会の女性だ。
当時はあんなに地味だったのに、逆に浮いている。

そして、当時は相手にもされなかった名士の息子から求愛されるし、
簿記をいかして、短期ではあるが、やりがいのある仕事もまかされることに。
出国当時は居場所もなく、わずらわしく魅力のない街と思えたのに。
今ではエイリッシュが主役になったようだ。

街を出る前に、この状況が想像できたら
アメリカに行くこともなかったのに、という半ば後悔のような感情。

しかし、誰にもいっていないが、エイリッシュは、アメリカの出国間際に
彼氏の強引な頼みで、結婚をしてしまっている。

毎日は楽しく、ずるずると滞在は延び、心はゆれる。
しかし、時間が巻き戻せるわけではない。

そんなとき、かつての嫌みな女性店主が
エイリッシュがアメリカで結婚したことを、知り合いから聞きつけ、
さも得意げに弱みを握ったとばかりに、彼女を問い詰める。
「あなた、いろいろ楽しんでるみたいだけど、
実は名字が変わってるんじゃないの?」と。
それに対してエイリッシュはいう。
「忘れてた。・・・ここは、こんな街だった」。

このセリフが映画のハイライトですかねえ。
「結婚していたことを忘れていた」、というのかと思わせながら、
「こんな(貴方のような厭な人がいる)街だったことを忘れていた」と言わせ、
そのことによって、今までの二股状況にゆらぐエイリッシュの気持ちを
鮮やかに、転回させる。

 
そして、エイリッシュはアメリカに帰国する。

エイリッシュは、アメリカの彼氏への愛情を思い出したわけではない。
ただ、何に対して誠実であるべきかということを思い出しただけだ。

どっちが好きだ、という好き嫌いの話ではなく
人間としてのプライドとモラルが問われているのだから、
そこには悩みが入る余地がない。
だから、エイリッシュは自分に恥じながらも、即断する。

しかし、女性店主から指摘されなければ
どうしてたんだ、というつっこみは、誰もが思うところ。
だから、このラストは、観ている我々に何ともいえない印象を残す。
納得出来るような、釈然としないような
爽快であるような、ほろ苦いような。

そんな想像も含め、曖昧さや複雑さが
この映画の魅力になっているのだろうと思う。