光
※ネタバレ有り
この映画は、映画監督河瀬直美が表現とはなにか、
ということをあらためてみつめたもの、という印象を受けた。
盲人用の映画のガイド音声シナリオを作るという仕事についた美佐子と、
そのモニターとしてシナリオ会議に参加する目に障害を負ったカメラマン。
二人の関係を通じ、表現とはなにか、なにをどこまで語るべきか
ということが突き詰められていく。
老夫婦の晩年を描いた映画のシナリオで、
美佐子の第一稿はモニターに参加した盲人たちから
押しつけがましい、説明しすぎて余韻に浸れないという批判を受ける。
特にラストシーンで、妻を失った老人が夕日を見つめるシーン、
美佐子は、その視線を「生きようとする意志にあふれている」と書く。
しかし、カメラマンは、「それは、美佐子の主観だ」と断ずる。
反発を感じながらも、納得する美佐子。
第二稿で、美佐子は大胆に省略したシナリオを提案する。
それは、盲人たちから、余韻があってとてもいいという評価を受ける。
しかし、カメラマンはいう。
「最初に観る人には不親切なのではないか」と。
その冷静な意見に、他の盲人も、ああそうかもしれないと、
既に映画に慣れすぎてニュートラルな判断ができていなかったことに気づく。
そして、問題のラストシーン。
美佐子の原稿は、「老人は夕日をみつめ、微動だにしない」というもの。
主観を交えない原稿になっている。
しかし、カメラマンはいう。なにかが足りない、「逃げている」と。
それに対し、こんどは美佐子は反発する。
「むしろ、それはカメラマンの想像力が不足しているではないか」と。
正直、見ている筆者も、悪く無いんじゃないかと感じたし、
これ以上、語ったら、語りすぎで余計なのではないかと思う。
だから、美佐子の反発や葛藤がリアルに感じられる。
このあたりのやりとりは、とてもスリリングだ。
ある方向に進んでいる会議が、誰かの冷静なひとことで変わってしまう瞬間。
忘れていたことにみんなが気づき、なごやかな空気が一変する瞬間。
自分が自信を持っていたことが否定され、
正しい判断が出来なくなる瞬間。
しかし、美佐子はカメラマンに対し反発すると同時に惹かれても行く。
カメラマンは、目がほとんど見えない今でも、なんとか写真を撮ろうとあがいている。彼にとって写真は、おそらく全てだ。だから、捨てることができない。
美佐子はそれを見て、彼に対する見方が変わっていく。
表現とはなにか、ということに答えはない。
ただ、ここには、表現するということに対して真摯であろうとあがく姿が描かれている。そして、真摯であろうと必死になったその先にしか、未来はない。
ラストで映画は完成し、映画館で上映される。
そして、ラストシーンのシナリオがどうなったかの答えが明かされる。
それは、想像を上回る素晴らしい答えだった。
マザー!
2017年 アメリカ
監督:ダーレン・アロノフスキー
出演:ジェニファー・ローレンス、ハピエル・バルデム
※ネタバレ有り
とても、疲れる映画だった。
妻が延々といじめられるというストーリーで
展開はめまぐるしく予測不能で
どこへ連れ行かれるのかさっぱり分からないという緊張状態が、延々と続く。
まあ嫌いではないのだが。
物語は、サイコスリラーとして幕を開ける。
詩人の夫を持つ妻は、郊外の家で二人で暮らしている。
そこに訪ねてくる見知らぬ男。
困っているらしく、妻が反対するも、それを無視して夫は男を家に泊める。
やがて、翌日には男の妻も現れ、妻の大切にする家の中で
傍若無人に振る舞いはじめる。
いったんは、それも解決し、また妻が懐妊したことによって
ふたたび、家に平和がおとずれるのだが、
夫の作品の成功とともにファンがたくさん訪れ始め、
家はふたたび蹂躙され、やがて狂乱の事態へとエスカレートしていく。
最初は、見知らぬ人間を家にいれたばかりに起こる惨劇という
ホラーの定番的な話かと思うのだが、段々とそれは様相を変え、
後半になると幻想なのか現実なのかもよく分からないカオスなものになってくる。
ただ、そのカオスっぷりがものすごい。
大群衆による略奪は起こるは、軍隊はでてくるは。
理解は追いつかないが、ただただ圧倒される。
後からWEBで見た解説によると、
家=妻は母なる地球であり、夫は神、
家に押し寄せる侵入者やそこで起こる戦いは
環境問題であったり、現在地球上で起こっている
紛争や宗教的対立などを表しているということらしい。
そう思って、振り返ると、ああなるほどとは思うのだが、
そんな、つまらない話しだったの、という気にもなる。
昔の宗教画のように、細かいディテールまでそれが暗示する意味があり、
それを知らないと本当の事が理解できない、というような。
いちいち、ディテールに意味づけをすることは
映画を卑小なものにしてしまうのではないだろうか。
監督や制作スタッフにどういう思惑があろうと
最初に感じた、「なんだこれ、よく分からないけどすごいパワーだ」と
思ったことが、私にとっては真実である。
家を自分の分身のように感じる妻が、
家を汚され蹂躙されることによって感じる痛みや不快感。
夫は、寛大なのかなんなのか、妻の不安を理解せず守ろうともしない、
そして闖入者たちは、ねちねちと妻をいじめていく。
要は全員が妻の敵だ。
それは、物語が進むとどんどんエスカレートし、
身重な妻は誰にも守られることもなく翻弄され、
やっと産み落とした我が子も奪われる。その恐怖と怒り。
この女性が普遍的に持つであろう不安と恐怖が肉体化され、
これでもかと、エスカレートしていき、最後に訪れるカタストロフ。
この悪夢の具現化とスラップスティックなパワーが
この映画の魅力であろうと、個人的には思う。
ラストも、唖然とするような終わり方で、
本当に最後まで予測不能であった。
妻役のジェニファー・ローレンスの演技は素晴らしいのだが、
夫役のハピエル・バルデムの間違ったことは言わないのに、
イライラさせられるぬるっとした感じがとにかく素晴らしい。
哭声/コクソン
あゝ、荒野
菅田将暉の演技につきるのでは、と思う。
ポロシャツが似合う育ちの良さげな雰囲気を感じさせながら、
感情を爆発させるときのきれっぷり、そのギャップがいい。
目が生々しくて、凶暴だ。
タイトルは「あゝ、荒野」という。
荒野とは、先行きの見えないゴミためのような世界のことだろうし
その荒野を生きる孤独とか、その孤独に耐えながら、それでも耐えきれずに
他人と繋がることを夢見る、そんな想いのようなもの。
親から捨てられた、新次(菅田将暉)が
ボクシングに居場所を見つけ、というのは、
「あしたのジョー」が輝いていた70年代なら、ともかく
いまどきないだろう、とも思うのだが、
2021年という設定でも不思議と違和感がない。
それどころか、意外とはまっている。
ハングリーなんて言葉は、もう死語かも知れないと思うが
四角いリングで、言葉もなく殴り合うという
その原初的な衝動の発露が意外といいのだ。
今日的なリアリティを失っていない。
そのエンジンとなるのが、
新次を演じる菅田将暉の目つき。
暴力的で挑戦的で、自分の衝動を疑わない、その目つきだ。
その熱量に勇気づけられて、観ている我々も
物語は、ライバルとの戦いを経て、
仲間との戦いへと進んでゆく。
荒野でつながることは、なによりもボクシングで