ユーモラスな人間ドラマの裏にある、死の気配。 「秋日和」
1960年 日本
監督:小津安二郎
出演:原節子、司葉子、佐田啓二、佐分利信、岡田茉莉子
※ネタバレ有り
小津が描くのは、親からこどもへと家族がつながっていく物語。
そこでの、ちょっとした行き違いや変わっていくことへの畏れ。
ある部分を取り出せば、家族の崩壊かもしれないし
それは同時に新しい家族が生まれるということかもしれない。
本作も、そんな小津の世界が描かれる。
夫に先立たれた母親と、
その母親を残して嫁に行けるかという娘の物語。
母親を原節子、娘を司葉子が演じている。
亡くなった夫の悪友連中は、24歳になる娘を心配し、
なんとか心残りなく嫁にやろうといろいろ画策する。
娘に出来のいい部下を紹介したり、それでも娘が母親を気にしているとみるや
母親に悪友の一人をくっつけようとしたり、そこに岡田茉莉子演じる娘の友人も絡み、さまざまな企みが、ユーモラスなコメディタッチで描かれていく。
最後には、娘は紹介された男性と結婚することになるのだが、
母親は、再婚をせずに一人で暮らすという決断をする。
この小津の作った世界は、思いやりと愛情にあふれている。
誰一人、悪人がでてこない。夫の悪友三人組も軽口ばかりだが、その根底には思いやりがある。娘の友人もしかりだし、娘も母親もお互いのことを考えている。
しかし、にもかかわらず、この映画には死の気配が立ちこめている。
既に亡くなっている夫の不在や、原節子が纏っている暗さ。
最後に死ぬときは誰でも一人なのだ、というあきらめのようなもの。
その孤独は自明の理であるし、なにかで解決できることでもない。
そんな解決できないことを抱えながら
生きていくということの意味を小津映画は考えさせる。
思いやりを持つということは解決ではないが
そういうことで、なんやかやと、あがいてドタバタするのが人間なのだと。
全編が小津の美学によってコントロールされ、
ローンアングルはもちろんなのだが、
画面が縦の線によって、遮られ分断される構図が印象に残る。
それは、最初の寺の法事のシーンの柱からはじまり、
飲み屋の路地、窓、会社の壁などなど、徹底している。
この、あえてせばめられた画角というか、
レイヤー構造が様式美の中に奥行きとリアル感を生んでいるように思う。