私の男

日本 2014年
 
監督:熊切和嘉
 
 
※ネタバレあり
 
 
 
桜庭一樹原作、二階堂ふみ浅野忠信ダブル主演。
監督は「海炭市叙景」の熊切和嘉。
 
映画としては、オーソドックスな作り。
時系列にそって、きちんと物語を展開させようとする意思が感じられる。
その分、もたつくこともないわけではないが、
そのまじめさは、好感がもてる。
見終わった直後は、そこまでいい映画とは思わなかったが
後から、二階堂ふみの印象がじわっと来る。
 
話は、奥尻島地震により幼くして孤児となった花(二階堂ふみ)と、
花をひきとった淳吾(浅野忠信)とのどろどろのラブストーリー。
大人になりきれない淳吾は、幼い花と関係をむすび、
やがて、相互依存の関係になっていく。
花をひきとる時に、淳吾がいわれた言葉。
「おまえに、家族を作れんだろう。女と暮らすのとはわけが違うんだ」。
しかし結局、淳吾はその言葉のとおり、家族という関係を構築することはできず
ただ、男女の関係を作ってしまうだけだった。そして、それに依存する花。
中学生くらいの花と指をなめ合う淳吾。隠微なふたりだけの世界。
この辺の描写は、丁寧で濃密だ。
めがねをかけ、まだ幼い風情の花が、学校からの帰り道で会った淳吾にキスをせがむ。
その少し前には、まだ遊び盛りの同級生と一緒にいたはずなのに。
そして、「お父さん、しよ」といってはじまる濃厚な性描写。
北海道の美しい雪景色の中で描かれる、その世界は美しい。
大人になりきれない淳吾と花が作り上げたその閉鎖的な世界は
ふたりだけで完結していれば、それはそれで幸せだったはず。
しかし、その世界は、花が大きくなり外の世界と関わりを持つようになるとだんだんと変質してくる。
 
二人は世話になった人に、関係を知られてしまう。
そして、花を遠くの親戚に預けようとするその人を
花は、流氷の海に突き飛ばし殺してしまう。
二人は逃げるように東京へ出て暮らしはじめる。やがて年月がたち、花は会社勤めをするようになる。そこに現れる、花に好意を抱く男たち。
その男をおどしては、「おまえには無理だ」と言い放つ淳吾。
しかし、二人の関係は、前のようにはいかない。昔は、わかったお互いのことが分からないと、つぶやく花。
ラスト、結婚式を明日に控えた、花と婚約者の待つレストランにネクタイをつけ現れる淳吾。淳吾の様子は、おかしい。落ち着きがなく、挙動不審だ。あらぬ方を見ては、男に「おまえには無理だ」とつぶやく。
そして、テーブルの下では、花の足が淳吾の足を捉えている。
 
東京にでてからの、描き方は、ぶっきらぼうだ。
ほとんど説明らしきものがない上に、展開が唐突で
ただ、ラストシーンまでのつなぎを作っただけのよう。
 
淳吾は、最後に「おまえには無理だ」とつぶやく。
しかし、これは、誰にむかって放たれたことばなのであろうか。
相手の男にむけてのものなのか、それとも自分や花に向けてのものか。
この関係を終わらせることは不可能だと。
救いはない。でも、そもそも救いなど必要としているのか。
幸せとか幸せでないとか、の向こうにあるもの。
その淫靡と恍惚は、悪くはないという気がする。
 
浅野忠信もよかったが、
こういうエロい役を自然体で演じられる二階堂ふみは、やっぱりすごい。
彼女が演ずると、かなりどろどろで悲壮な場面も、昼メロ的な情緒過多に陥ることがない。貴重な才能かと思う。いろいろ出過ぎだけど。
 
あと、音楽はジム・オルークが担当している。
へえなるほど、という感じ。

 

朝井リョウ① 「何者」「スペードの3」

朝井リョウの小説は、最初の内なかなか読み進めるのが難しい。
数ページ読んでは、本を閉じ、また数ページ読んでは閉じる。
なので、まず三分の一くらい読むのに、数日かかってしまう。
しかし、その最初の苦行を越えると、あとは一気に読むことができる。

彼は、登場人物の内面を掘り下げようとする。
たとえば、ある集団のなかでのその人物の立ち位置。
彼あるいは彼女は、そのなかでどういうポジションをとっているのか、
それは、周りからはどう見られ、あるいは、どう観られたいがために
どう発言し、どう行動するかを、克明に掘り下げる。
そして、たとえば、主人公がポジションが下の人間にかかける優しい言葉の裏にある優越感とか誰かが自分を高く見せるために不用意に発言する言葉の裏を分析してみせる。
その視線は、とても意地悪で、読んでいるこちらも居心地が悪くなる。

なぜかといえば、主人公はつまらないものを守るために自分を欺き、本来的ではない人生を送っている。そこから、いかにその過ちに気づきそれを乗り越えるかということが作品のテーマだからだ。なので、まず、いかに自己欺瞞に満ちているかという所から話ははじまる訳だ。

最初に読んだのは、直木賞をとった「何者」。
大学生の就活をテーマにしたこの作品、なかなか就職がきまらない本当は好きな演劇をまだ捨てきれない男子が主人公だ。彼は、かつてコンビを組み、今も演劇に生きる決断をした友人をばかにし、そしてまわりの仲間が内定を受けたという話をきいては、嫉妬し、そいつがはいった会社がブラックならいいのにと思ってしまう。
本当は、演劇に生きる友人や就職のきまった友人がうらやましいのだが、それを認めることはできず、一歩引いたところから傍観者のふりをすることで、かろうじて自分のプライドを守っている。

しかし、そんな風に小説はかかれていない。主人公はまわりの大学生のあせりや嫉妬や友情を冷静に見つめる傍観者=小説の語り部として描かれている。だから、読んでいる我々も彼の目を通して他の人間を見ているのだがラストで、しかし、いままでバカにしていた人間から、かれの欺瞞が暴かれ、かれは、何も言うことが出来なくなってしまう。
それはまるで小説をよんでいる我々の自己欺瞞が暴かれたような気分だ。

いわば、ミステリーの叙述トリックめいたこの仕掛けは、とても優れていると思う。
しかし、その仕掛けがこの作品の核ではないし、小説のテーマは、その主人公がいかに自分の欺瞞に気づき、そして自分を見つめることが出来るかだ。
ラスト、ある面接で主人公は、自分の長所と短所とは、と聞かれ「短所はかっこわるいところ、長所はかっこわるいということを認めることができたこと」という話をする。その面接の結果は描かれないが、そう思うことができたということで、希望をもって小説は終わる。

次に読んだのが「スペードの3」。
これは、3人の女性を主人公とした連作短編集だ。
最初の話の主人公は、学級委員長タイプだ。
小学生時代、学級委員長としてクラスをしきり、行き場のない子の面倒も見てあげた。
今は、あるタレントのファンクラブの幹事として、会を切り盛りしている。
しかし、かつてもそうだったように、彼女の思惑はずれていく。
面倒をみて頑張っているはずなのに、それが、まわりからは評価されない。
それは、彼女が面倒を見ている自分。がんばっている自分を演じている、ということが
なんとなく、まわりに伝わってしまうから。
あることから、彼女のやり方は、周りから非難され、行き場を失う。
そして、なにかを演ずるのではない生き方をしていくと感じさせるところで話は終わる。

構造としては、「何者」と全く同じだ。
弱さや、自己欺瞞を抱えた主人公が、それを誰かから暴かれ、
そして、どん底から、自分に正直に生きることをはじめる。

彼の書く主人公は、気づいても変わることが出来なくて
悩むということはなく、無様な自分を隠すことをやめ、自分を直視し
そして新しいスタートをきる。だいたい、話はそこで終わる。
いかに、気づき、変われるかに常にフォーカスされている。

でも、人間はそこまで、シンプルで合理的か?と思うのだ。
そこに気づけなくて、悶々とし、50歳くらいになってようやく、気づいて後悔する。
あるいは、気づいていても、何も変わることができずに悩む、
そして、気づいたことに目をつぶって、気づかなかったことにしてしまったり。
別に、それを描くことがいいというわけではないが
そういうあきらめ、が感じられないことは、やや不満だ。そして、そういう風に、人間を分析することで、なにかを分かったように描くことが不満だ。

残りの2つの話は、基本構造は、似ているが、もう少し物語としての飛躍が感じられる。

2番目の話の主人公は、自己否定はそこまでしていない。
ただ、現状を抜け出したいと思っている。
そして、ラストで、彼女は髪を切る。
それは、かなり唐突で、美しい行為ともそうでないとも何ともいいがたい説明のつかない行為だ。作者も、その理由や合理性については、踏み込まない。
3番目の主人公は、あまりぱっとしない女優だ。
何かにつけライバルと比較する自分自身にも疲れ、引退も考えている。
引退時にブログで発表する予定の、原稿も書きためている。
それは、おそらく、ああそうだったのかと、ファンや世間を納得させるものであるはず。
しかし、彼女は突然気づいてしまうのだ。そんな、世間を納得させるための文章になんの価値もないことに。そして、それを削除するところで、物語は終わる。

「何者」や一番目の話の主人公は、隠していた自分を、他人から打ち砕かれ
そして、リスタートをきる決心をする。

二番目や三番目の主人公は、もう少し複雑だ。
なぜ、そうするのか、自分でも明確には分からない。
だけど、そうしなくてはいけないと思うのだ。
理由は、分からないが、ただ行動する意思だけは感じる。
その分からなさや飛躍こそが、小説であると思う。

まだ、私の中で、朝井リョウに対する評価は定まっていない。
もう少し、読んでみるかと思う。

シグナル

2014年 アメリカ

監督:ウィリアム・ユーバンク

出演:ブレントン・スウェイツ

 

※ネタバレ有り


映画サイトでの点数も低いし、全く期待しないで観た映画だが
それほど悪くはない。というか、割と好きかもしれない。

ジャンルとしては、SFスリラーということで、
まあ、映画に何を求めるかだけど、あっと驚く意外性のあるラストや
きっちりと伏線が回収できてる合理性を求める人にとっては
たしかに、評価は低いかもとは、思いました。
でも、この監督はきっと、合理性とかストーリーとか重視してないよね。
そういうところで勝負するのではない映画を作りたかったんじゃないか。

ストーリーは、大学生の男女3人の旅行ではじまる。
ニックとヘイリーは恋人同士で、そしてジョナはニックの親友。
ニックは病気となり脚に障害を抱える、そのため、ヘイリーの重荷になりたくなくて、この旅行で別れ話をしようと考えている。まだニックのことが好きなヘイリーはそのことに気づきながら、どうすることもできず、やるせない想いを抱えたままの旅行だ。

ニックとジョナはPCに詳しく、旅行の途中で、大学のPCや自分のPCがハックされた犯人が近くにいることがわかり、その犯人を突き止めようと寄り道をする。
そして、その居場所らしきところにある廃屋にはいるところから、映画はSFスリラーに急展開する。

得体の知れない何者かによって拉致された3人。ニックは目覚めると車いすに座らされ謎の研究施設に監禁されている。現れるのは、防護服に身を包んだ研究者デイモン(なんと、マトリックスのモーフィアスだ)。ここはどこだ、他の2人は、というニックの質問には答えず「君は、エイリアンとの接触で感染した。」だから、我々に協力しろという。
どこかで見たようなシチュエーション、どこかで見たようなストーリー。
そして思わせぶりで不安をあおる断片がてんこ盛りで出てくる。ニックの腕にプリントされた謎のID、「この時代にまだボールペンがあるとは」という研究者、なにか黄色い汚物で汚れた部屋を洗浄する研究員たち、収容者が脱走したという警報、意味不明の実験、実験室にいる牛等々。ここがどこなのか、自分は何をされたのか、何も分からないニック。部屋を移動する途中で、昏睡状態のヘイリーを見つけるが、どうすることも出来ない。そして、自分の脚がサイボーグ化されていることを知る。

見ているこちらとしては、この時点で、数パターンのオチを考えてしまう。
宇宙人による誘拐、政府の陰謀、軍の研究施設での秘密実験、パラレルワールド、あるいは全てが妄想、ニックたちが被害者なのかそれとも逆なのか等々。ありがちな設定なだけに何でも考えられそうな状況。そして、本当の伏線なのか、ミスリードするための伏線なのかもわからないほど出てくる断片。ストーリーではなく、断片の集合でなりっているとすらいえる。

そして、謎は解明されないまま、ニックはヘイリーと研究施設を逃げ出すことに成功する。しかし、出会う人々もどこかがおかしい。やたら空を気にしたり、おばさんが「内から外よ」と意味不明はことをいったり。
車を奪い、ぐるぐる迷った末になにやら廃墟になった観光案内所のような所にたどり着く。どうも、この世界には、抜け出す道がないようだ。そこにいたのが、一足早く逃げ出したジョナ。そして、ジョナも腕をサイボーグ化されていた。

変わり果てたからだをかかえ、3人はまた旅をはじめる。だが、検問をきりぬけることができず、ジョナは自分を犠牲にして2人を逃がす。

二人は出口を探すものの、結局、研究所の人間に捕まってしまう。そしてヘイリーは連れ去られ、ニックはこの世界の果てへとたどり着く。

本作は、まじめにいうなら、SFという世界観を借りた青春ラブストーリー、
あるいは友情ストーリーということになるのだろうか。
不条理な世界の中で、理由も分からず翻弄されながら、悩み傷つき、迷う主人公たち。最後には、愛情や友情を信じつつも別れ別れになってしまう。
ところどころに挿入される回想シーン。その中でニックとヘイリーは遊園地で戯れ
ニックとジョナは森の中をランニングする。
失われた日々、そしてこれから失われようとする希望。そのぽっかりと空いたような喪失感。

映像はスタイリッシュで、音楽も美しい。
演出も中だるみするところもなく、最後まで一気呵成に観てしまうスピード感。映画的なクオリティはかなり高いと思う。
この監督、デビッド・リンチの再来とか、言われているらしい。
リンチとは、ちょっと指向が違うし、もっとスタイリッシュであるが、
説明する気のないところや映像へのこだわりというところでは、通じるものがあるかもしれない。

ラストでこの世界の秘密が明らかになるのだが、それで、全ての謎がクリアになるわけではない。まあ、この映画そういう映画ではないので、それで、評価が下がるということはない。

この先、「ガタカ」とか「ドニーダーコ」のような、SF青春カルトムービーとなっても不思議ではない気がする。

アメリカン・スナイパー

2014年 アメリカ

 
 
出演:ブラッドリー・クーパー
 

※ネタバレ有り
 
 
クリントイーストウッドの知性とは、どういものであろうか。

本作は、イラク戦争で狙撃兵として数々の功績を残したクリス・カイルの自伝を元にした映画。だから、ここには、クリスの視点とイーストウッドの視点が入り交じっている。

映画冒頭で、父親が子供たちを前に訓示を垂れる。
「人間には3種類の人間がいる。狼、羊、そして番犬だ。おまえたちは番犬になれ」と。
クリスは、その影響を受け、強い男に成長していく。カウボーイを目指すも、ぱっとせず、クリスは軍隊を目指すことに。

おりしも、9.11の事件は起こり、クリスは祖国を守るためにテロと戦うということを強く意識するようになる。クリスが、所属したのはネイビーシールズという特殊部隊。
そこで狙撃の才能を開花させたクリスは、狙撃兵としてイラクに派兵される。
派兵される少し前に、クリスは結婚している。だから、クリスは新婚の花嫁をおいて、イラクに出兵した。

戦場において、クリスはめざましい功績をあげる。つまり、たくさんのイラク人の敵兵を狙撃した、ということだ。その活躍は、部隊で「伝説」というニックネームをつけられるほどだ。彼の行動原理は、明快だ。仲間を守る。それだけだ。だから、彼の行動は迷いがない。

あるとき彼がライフルスコープで監視する建物から小学生くらいの男の子と母親がでてくる。母親は、こどもに対戦車手榴弾を手渡す。それをもって走り出す男の子。若干の逡巡の後、クリスは男の子を撃ち殺す。汗ばみ、首を振るクリスの無線から、司令部の声が聞こえる。「正しい判断だった。よくやった」と。

クリスは、そこで必要以上には悩まないし、引きずらない。なぜ、母親と子供が戦わざるをえないのかに踏み込まない。なぜなら、彼には、仲間を守るという大義があるからだ。そして、クリントイーストウッドも必要以上には、そこを掘り下げることはしない。

イラク戦争とは、第二次湾岸戦争と言われることもあるが2003年にブッシュがはじめた戦争だ。「大量破壊兵器を隠し持っていると難癖をつけて」。しかし、そんなものは存在しなかった。だから、この映画を見る我々は、この戦争に正義がないことを知っている。クリスの祖国を守るという行動に大義がないことを知っている。
イーストウッドは、ことさらに、そこにフォーカスはしない。しかし、イラク人を単なる敵として描いているかといわれれば、そうではない。きちんとそこで生活している人として描いている。

しかし、いかに行動原理が明快であろと、それが心に影響を及ばさない訳ではない。
6週間の出兵が終わり、故郷に帰るクリス。妻のタヤはクリスを暖かく迎える。しかし、なかなかその生活になじめないクリスは、タヤも心は戻ってきてないと不満をぶつけるなか、志願してまたイラクへと戻っていく。戦場での体験は、クリスを変えてしまった。

イラクでは、彼は必要とされ、仲間を守ることができる。彼は「伝説」でありヒーローだ。そこでは、適切な判断と、素晴らしい狙撃技術でたくさんの功績を残す。仲間と戦うシーンは、戦争礼賛だという批判もなるほどというヒーローストーリーだ。危機があり、それを仲間とともに切り抜け、目的を遂行する。

イラクで功績を残しては、故郷に帰り、家族と暮らす、という生活を繰り返すクリス。やがて、子供も2人生まれるが、故郷での暮らしになじむことはできなかった。

イラク行きは、6回におよび、そして、宿敵を倒したクリスは、ようやく軍隊を除隊し故郷での生活をはじめる。なかなかなじめないクリス。しかし、病院で、帰還兵の手助けをするということをはじめ、クリスもその違和感から解放されていく。

ようやく、故郷での生活にもなじんできたころ、手助けをする帰還兵から撃たれ、クリスは死ぬ。理由は不明だ。

本作は自伝なので、当然そのラストはなかったのだが、本作制作中に、その事件は起こり、ラストが変わったということらしい。

戦争シーンは、なるほど緊迫感にあふれ素晴らしいし、ライバルともいうべき敵スナイパーとの戦いも手に汗握るおもしろさだ。
しかしクリントイーストウッドは、この映画をただのアクション映画にはしていない。でもだからといってクリスの内面に踏み込むこともしていない。だから、クリスが、どれほどの闇を抱えていたのか、いなかったのかは分からない。ヒーロー然として描いてはあるが、ヒーローともヒーローでないとも明確にはしない。クリスはこの大義のなかったイラク戦争の犠牲者なのかもしれないし、ヒーローなのかもしれないし、あるいは罪深き罪人なのかもしれない。その判断は、観客にゆだねられている。

イーストウッドのスタンスは、事実を事実として観客の前に提示すること。そこにできるだけ、主観をまじえないこと。それだけだろう。(あるいは、うがっていえば、そう見えるようにすること。)本筋と関係のないところでは、エンターテイメントとして映画的なカタルシスも追求するが本筋においては、寡黙を貫いている。イーストウッドは、踏み込むべきところと踏み込むべきではないところの判断が完璧だ。黙るべきところでは黙る、という節度を知っている。
それこそが、映画人としての彼の知性なのであろう、そして観客にボールを投げるのが上手い。気がつくとボールを持たされ、ついなんか、投げ返さなきゃと思ってしまいます。
 
 
 
 
 
 
 

セッション

2014年 アメリカ
 
監督:デミアン・チャゼル
 
出演:マイルズ・テラー、J.K.シモンズ
 
※ネタバレあり
 
 
 
 
ちらっと、予告編を観てから、ずっと観たいと思っていたのだが
ようやく、観れた「セッション」。
まあ、期待通りというか、「あれ、これで終わり?」というか。
 
ストーリーは簡単に言うと、エゴ丸出しの音楽バカ同士のスポ根バトル。
一人は、アメリカのトップクラスの音楽大学の鬼教師フレッチャー、
そして対するは、その鬼教師率いるビッグバンドに加入した1年生ドラマー、アンドリュー。
 
鬼教師が、これでもかとばかりに、精神的な圧迫しごきを行い
それに負けそうになりながらもアンドリューがしごきに耐えるという構図。
まあ、いってみれば「おしん」のようなものか。
しかし、ちょっと違うのは、アンドリューもまた、
エゴイストまるだしの音楽バカであるということだ。
自分が一番上手いと思っている、他の人間に対する気遣いや思いやりは皆無だ。
だから、教師と生徒という立場であっても、なかば、どっちもどっちという感じでもある。
 
鬼教師の口癖が「チャーリー・パーカーは、シンバルを投げられなかったら“バード”にはなれなかった」というもので、要は、誰かに罵倒されるような経験を積まないと、あまっちょろい教育では、名人は生まれない。スパルタこそ、鍛え上げる唯一の方法である、という考えの持ち主。
それは、それで、一理ない訳ではないが、しかし、このフレッチャー先生は
本当に生徒のことを考えて厳しくしているのか、怪しいところがある。
生徒に対する好き嫌いや気分で、その辺を恣意的にやっている雰囲気が満載なのだ。
だから、観ている我々も、気が抜けない。
そういう意味では、心理サスペンス映画でもある。
 
そのしごきに耐え、アンドリューは主奏者の地位をつかむのだが
あるコンテストで、自動車のトラブルに見舞われ、遅刻したあげく事故にあってしまう。
それでも、しごきに耐えてつかんだ主奏者の地位を死んでも離したくないアンドリューは
それこそ、はうようにステージにたどり着く。
しかし、演奏途中で力つき、たたけなくなってしまう。
そこにフレッチャーはいう「もうお終いだ」と。
それは、このコンテストの演奏はもうお終いだ、という意味と
もうひとつ「おまえのドラマー人生は、もうお終いだ」というニュアンスにも聞こえる。
いままで必死に頑張ってきたアンドリューは、その言葉にブチ切れ、フレッチャーにつかみかかる。
 
その後、その理不尽なまでのしごきやスパルタ教育が学校で問題になり
フレッチャーは、教師を首になる。
そして、アンドリューは、ドラマーになる夢をあきらめる。
 
ある日、ぶらぶらと街を歩くアンドリューは
フレッチャーがライブハウスにでることを知り、店に入る。
そこで、端正なピアノ演奏を聴かせるフレッチャー。抑制された丁寧な演奏だ。
目が合い、店を出ようとするアンドリューをフレッチャーが呼び止める。
そして、おたがいに前とは違う境遇で話をする。
アンドリューはそこで聞く。
チャーリー・パーカーは、シンバルを投げられなければ“バード”にはなれなかったかもしれないが、それはやりすぎると、そこであきらめ、つぶされた人間もいるのではないかと。それに対して、「天才は、決してあきらめない」とフレッチャーはいう。過去のしごきも、アンドリューに期待するが故だったと謝罪する。
そして、今度フェスに出演するのだが、そこでドラムをたたいてくれないかと頼むのだ。
 
しかし、それは、アンドリューによって学校を追い出されたと思っているフレッチャーの復讐。フェスがはじまり、告げられた曲はアンドリューの知らないものだった。バタバタと何も叩けないアンドリュー。曲が終わっても、観客はとまどい拍手もまばらだ。
ここまでして復讐するのかと慄然とし、またいたたまれずに、立ち去ろうとするアンドリュー。父親だけは、そんなアンドリューをやさしく抱きしめる。
しかし、わがアンドリュー君は、そこで、負けないのだ。
気を取り直し、ステージに戻るアンドリュー。
そしてフレッチャーの曲紹介を無視し、いきなりドラムをたたき始める。それは、プログラムにはない「キャラバン」。かつて、学校でさんざん叩き込まれた曲だ。
フレッチャーも、それにあわせざるをえず、キャラバンをバンドは演奏する。
ラスト、曲を終わらせようと指揮するフレッチャーをまたも無視し、
アンドリューは、ドラムソロを続ける。「何をする気だ」というフレッチャーに対して
「俺が合図する」といったきり、延々とソロを続ける。それは、おそらく最高の演奏だ。
やがて、フレッチャーも、演奏の気迫に押され、乗ってくる。
体は自然と指揮をはじめ、アンドリューを見る目は、相手を認める目だ。
たとえ、復讐心をもっていようと、よい音楽には敬意を払う、音楽バカ二人。
この瞬間、憎しみも関係なく、ただよい音楽を愛する二人がいた。
そして、渾身の演奏が終わると同時に映画は終わる。
この先、どうなるのか、二人に友情が生まれるのか、それともまたバトルに戻るのか。
 
まあ、だから、不条理なしごきに耐え続けたアンドリューが最後に
反撃し、うっぷんをはらす、というだけの映画ではない。
私が監督なら、暗転したエンドロールで万雷の鳴り止まない拍手の音だけを流し、
ちょっと良い映画風にしてしまうんじゃなかろうかと思いました。
 
でも、そうしなかったところに、この監督の潔さがあったのでしょうね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

めし

日本映画 1951年

監督:成瀬巳喜男

出演:原節子 上原謙

※ネタバレ有り

 

なんとも息苦しい映画である。
なにが息苦しいって、全編にわたって原節子が怒っているのだ。
美人が怒ると怖いとはよく言われることであるが
正統派美人の原節子なだけになおさらである。

では、原節子はなぜ怒っているのか。
それは、現在の貧乏長屋暮らしで飯炊き女のような境遇と
そんな境遇を与えることしか出来ない夫に怒っている。

時代は終戦から数年後、大恋愛の末に結婚したが子供もなく大阪の貧乏長屋で二人暮らしだ。原節子演じる妻は、毎日ご飯を作るばかり毎日。夫は優男の上原謙。悪い男ではないし、まじめでやさしいのだが、気はあまり効くほうではない。会話もあまりなく、妻の顔をみれば「飯は?」としか言わないし、妻の不満にも気がついていない。妻はそんな状況にだんだんと耐えられなくなってくる。

そこに現れる、わがままで奔放な夫の姪っ子。家出してきたという。
姪は妻の欲望の象徴だ。ご飯を作るという責任を持つことをせずに、毎日遊び歩いて人生を楽しんでいる。
だから、彼女の登場により、妻の不満はますます増大していく。
夫は、姪を大阪見物に連れて行くという。もちろん妻も一緒にというつもりでチケットもとってあるのだが、妻は直前になって行かないという。「どうして?行こうよ」という夫。しかし、妻はかたくなに拒む。そして、二人が遊んでいる間、妻は一生懸命、家の掃除やら炊事洗濯の家事に没頭する。しかし、心の中は煮えたぎっている。なぜ行かなかったのか、自分でも分からない。しかし、不満なのだ。姪に、そして夫に。

やがてその不満は大きくなっていき、妻は姪を東京に送り届けがてら実家に一時帰省することになる。一時的な帰省であはるが、実情はかなり危機的だ。
夫もそれはうすうす感じてはいるのだが平静を装って妻を送り出す。

東京の実家では妹夫婦が母親と一緒に堅実に暮らしている。
東京での最初の日、夕方まで、寝てしまう妻。いままでの大阪での暮らしが、よほどストレスだったのだろうか。母はとがめることもなく「女は眠いのよ」という。しかし、観ている我々は、あれっと思う。妻ってこんな人だっけ?と。ここでは妻と姪の立場が逆転しているのではないかと。

次の日、妻は職安に職を探しにいくのだが、長い列ができていて
とても簡単にはいかなそうなことを知る。妻は、自分にはもっと輝かしい可能性があると思っている。しかし、現実はそれほど甘くはなさそうだ。
夜、妻に思いをよせているいとこと食事をする。話の流れで、昔箱根に一緒に行って楽しかったという話になり、いとこは「これから行こうか」という。妻は、「だめよ、私まだ結婚しているのよ」という。「まだ」ということは、もうすぐ「まだ」ではなくなるかもという意味も含んでいる。

ある日、姪が妻の実家を訪ねてくる。
映画を見ていて遅くなったので、泊めてほしいと。
あなたの家の方が近かったんじゃないのとたしなめる妻。
だが、結局泊めることになるのだが、布団を敷こうともしない妻と姪に対して妹の夫が、「働いてもいないんだから、お母さんが布団を敷く必要はないですよ。泊まりたい人が敷けばいい」という。正論だ。慌てて、布団を敷き始める妻と姪。妻はわがままな姪っ子に対して感じてきたことが、そのまま自分に帰ってくることに愕然とする。

翌日、姪を送り、夫の親戚の家に行く。
そこでも、早く大阪に帰った方がいいと諭される。
そこで姪は、妻のいとこと食事をしたことを

妻に話す。半分、自慢だ。そして、「いい人ね。私、結婚しようかしら」と。それを聞き、妻は狂ったように笑う。それは、実は妻も密かに可能性として考えていたこと。それを、姪が口にしたことにより、自分の考えが、所詮は姪と同じレベルでしかない浅はかで打算的なものであったことに気づき、自分の愚かさを笑うのだ。

結局、輝かしい可能性は夢に過ぎず、自分の夢なんて所詮、姪と同レベルと思い知らされ、大阪に帰るしかないのかしら、と打ちのめされて帰ってきた妻を、母親と妹は満面の笑みで迎える。夫が来たのだと。
妻は、しかし、玄関にある夫のくたびれた靴を見たとたん、うろたえて、家に入らずに飛び出してしまう。みじめな気分に追い打ちをかけられたように、妻には思えたのではないか。

しかし妻は、そのすぐ後、銭湯から出てきた夫とばったりでくわす。
観念したように軽食屋に入り、ビールを飲む二人。そこでのやりとりは、細かく緻密だ。妻の不満を知らないふりをし続ける夫、そして、夫の妻であるというポジションを徐々に取り戻してゆく妻。

そこでお互いの近況報告が終わった頃、夫は「あー、腹減った」といい、あわてて、それを訂正する。妻が「私の顔見ると、めしはまだかとしかいわない」と不満を漏らしたことをちゃんと覚えているというアピールだ。その慌てぶりを見て、妻はほほえむ。夫がいう「そろそろ、帰ろうか」と。これは、妻の実家に帰るかということでもあり、また、大阪に帰るかという意味も含んでいる。妻は、「ええそうね」と同意する。

翌日、二人は、一緒に大阪に帰る。汽車のなかで、女のしあわせは、めしを作り家族のためにつくすことだと妻のモノローグでのナレーションが入る。
結婚というのは、ある種妥協しながらお互いの満足を探すということなのであろうし、これが、大人の解決方法であると考えることもできる。だから、これでハッピーエンドであるといってしまってもよいのであるが、どうも私には、3年後くらいにはまた、妻が不満に耐えられなくなるのではないかと心配になるのだ。

ちなみに、原作は林芙美子、新聞連載中に亡くなってしまったため、
ラストは原作になく、本作のオリジナルとのこと。

フランシス・ハ

2012年 アメリカ映画

監督:ノア・バームバック

 

※ネタバレ有り

ああ、こういう女の人っているよねえ、というのが第一印象。
一生懸命なんだけど、不器用でおっちょこちょい。いつもドタバタ走っている。
元気だけはよくって、声もでかい。そのくせ繊細な所もあって、プライドも高いし、くよくよ悩んでたりもする。天然なようでいて実は計算もしている。
まあでも、全体的には、おおざっぱでがさつ。計算しているようでその計算も結構いい加減だったりするのだ。
だから悩んではいても、引きずらない。つまり物事をつきつめて考えることが苦手ということなのだけれど、よく言えばポジティブといえなくもない。
勉強ができるタイプではないけれど、特定のことが得意で変に自信を持っていたりする。「わたし、将来は◎◎になろうと思うんだ」とちょっと変わった夢を周囲に語っては応援されつつも、実は心配されていたりする。微妙にずれているし、ちょっと間違えると痛い、そんなタイプ。
タレントでいうと、綾瀬はるかとかがイメージとしては、近いだろうか。
(いや、そこまで言ったら綾瀬はるかに悪いか?)

本作はそんなタイプの27歳の主人公フランシスが
自分の夢を追いかけて悪戦苦闘するという青春ストーリー。

舞台は、現代のニューヨーク。プロのダンサーを目指すフランシスは、女友達のソフィと一緒に暮らしている。今の彼女にとっては、男よりもソフィと一緒にいることが楽しい。だから、彼氏から一緒に住もうかと誘われても断ってしまう。

いい歳をして、公園でけんかごっこでじゃれっていたりする。
一緒のベッドで寝ているし、フランシスにとってソフィはなくてはならない存在。かなり依存している。しかし、依存しているのはフランシスだけだ。
ソフィは、フランシスが好きだし、遊びにつきあってはいるけれど、時には鬱陶しっかったりもする。ソフィは大人なのだ。
そんなソフィは、トライベッカで暮らすため契約を更新せずに出て行くという。
寝耳に水のフランシスは怒り、困惑する。さらに追い打ちをかけるように研究生として所属していたダンスカンパニーから、公演メンバーから外れたと言われる。
踏んだり蹴ったりだ。誰かと一緒に住もうと友人を当たるがうまくいかない。
やけになって、勢いでパリに2泊旅行にでかけたりするのだが、そのせいでさらにお金に困ることになり、知り合いの家を転々とすることに。
そしてカンパニーからは、ダンサーとしては雇えないと最後通告を受ける。
裏方として振り付けの勉強をするのはどうかと救済提案をうけるのだが、フランシスはそれをプライドがゆるさず断ってしまう。
そこで、お金にこまったフランシスは母校の大学で寮の管理人となる。
 
フランシスは、自分にダンスの才能がないということを認めることができない。
だから、なにもかもうまくいかないのだが、そのうまくいかないことを認めることも出来ない。つい、平気なふりをしてしまう。周りも気づかないし、自分も気づいていない。しかし、この映画はそこから破滅には向かわないし、虚無に陥ることもない。停滞はしないのだ。
 
フランシスが母校のチャリティイベントで給仕のアルバイトをしていると、そこに、ビジネスマンと婚約したソフィがチャリティをする側で訪れる。ばったり顔を会わせる二人。ばつの悪いのはフランシスのほうなのだが、ソフィは、フィアンセとの間に問題を抱え酔っている。そしてフィアンセとけんかし、夜中フランシスの部屋を訪れる。
悪酔いしたソフィは、そこで醜態をさらしつつも、昔のようにひとつのベッドで語り合う二人。楽しい時間が帰って来たようだ。
翌朝、ソフィは、眠るフランシスをおいて出て行く。フランシスはあわてて外に追いかけるが間に合わない。
おそらく彼女は、そこでソフィが昔のソフィではなく大人になってしまったことを知る。もう、昔の楽しい遊びの時間は失われたのだ、ということを本当に理解する。
 
フランシスは、カンパニーの提案を受け入れ
事務兼振り付けの見習いとして働き始める。
 
ラスト、彼女の振り付けでの公演が行われる。ユーモラスで独創的な振り付けだ。カンパニーの主宰者は絶賛する。そこにいるのは、大人になったフランシスだ。
そして、そんなフランシスをお祝いするようにかつての友人たちやソフィのすがたが見える。
 
27歳という設定が絶妙だ。フランシスのあせりとか、周りの微妙な視線の痛さとかが非常に共感できる。人は誰だって、勘違いしているものだし、それを乗り越えて大人になるしかないのだから。
 
フランシスを演じたのは、グレタ・ガーウィグ。彼女は、脚本にも関わっている。
この複雑なフランシスの気持ちを描けたのは、同年齢の彼女が脚本を書いていることによるのかもしれない。

全編、モノクロのお洒落な映像。途中、デビッド・ボウイのモダンラブをBGMにフランシスが街を走るシーンはレオス・カラックスの名作「汚れた血」へのオマージュ。
それ以外にも、いろんな映画へのオマージュがあるらしいのだが、残念ながら私にはそれしか分からなかった。

最後の最後で「フランシス・ハ」という不思議なタイトルの意味が明かされる。
それは、いろいろなものを受け入れることが出来るようになった、大人フランシスの決意表明だ。