The Future
このろくでもない、愛すべき世界。 「君とボクの虹色の世界」
2005年 アメリカ
監督:ミランダ・ジュライ
出演:ミランダ・ジュライ、他
※ネタバレ有り
小説家でもある、ミランダ・ジュライの監督作品。
カンヌでカメラドールを受賞している。
本作は、監督本人が演じる不器用な主人公のラブストーリーを軸に
その周りで起こる様々な人間模様を描く群像劇になっている。
とにかく主人公の不器用な姿が心に残る。
ちょっと気になっている靴屋の店員にアプローチをしたいのだが、
スマートにはできずに、まるで不審者、ストーカーのように挙動不審だ。
帰りを待ち伏せしたことは見え見えなのだが、
何気ない風を装って、帰り道で声をかける。
そして、図々しく車に乗り込もうとするのだが、拒絶されてしまう。
だけど、この人は落ち込まずに、何度も店を訪れてはトライする。
そして、部屋で、一人より二人の方が絶対楽しいのに、ともだえる。
かなり、空回りするタイプで、やることなすことみんなずれている。
6歳の男の子とかわしたエロチャットを、大人の男と勘違いする女性とか。
衝撃のラスト12分・・・。で、結局なんだったんだ? 「FAKE」
「指示書は作曲ではない。音源はないのか?」
「ピアノを弾くところを見せてくれないか?」
「なぜ家に楽器がないのか?」
失ってからはじまる人生の再発見。 「永い言い訳」 西川美和
西川美和の「永い言い訳」であるが、映画ではなく本の方。
妻が突然のバス事故で亡くなるという悲劇に見舞われた男の物語。
主人公は、小説家、衣笠幸夫。
イケメンで、タレント作家としてもそれなりに売れっ子だ。
しかし、最近は妻への愛情も醒め、出版社の女性と不倫関係にある。
事故の知らせを聞くも、悲しむことも出来ず
気持ちの落ち着けどころを見つけることができない。
罪悪感を抱けばよいのか、それとももう終わっていたのだと開き直ればよいのか
そもそも、なぜ妻と距離ができてしまったのかが、分からない。
なにかきっかけがあったのかなかったのか、それが自分のせいだったのか、
妻のせいだったのかも分からず、ただ、心の中で右往左往する。
そして、迷走する。
そこに現れた、同じ事故で妻を亡くした大宮陽一。
長距離トラックの運転手をしながら
まだ小さい子供たちとの暮らしに必死に奮闘している。
妻同士が友人だったことも有り、連絡してきたのだが、
陽一は妻を亡くしたショックから立ち直る事ができない。
そのストレートな感情に、幸夫は困惑する。
しかし、陽一の長男、中学受験を目指す真平に、なんとなく親近感を持った幸夫は
彼らの家族のサポートすることになる。
そして、彼らとの生活を通して、幸夫は新しい自分を発見していく。
自分の気持ちに正直になろう、とはよくいうことであるが
はたして自分の正直な気持ちなどというものは存在するのだろうか。
そんなものは、ただ、揺れ動く瞬間のできごとにしか過ぎず、
不確定性原理のように、これが自分の気持ちだと思った次の瞬間には
すでに変わってしまっている、いつまでたっても捉えることの出来ない、
そんなもののような気がする。
だから、自分の気持ちに正直になるとは、
自分はこの気持ちなのだと信じ、それとともに生きていくという決意なのではないか。
その決意すらも、しかし、確固たるというものでもない。なんとなく、そのポジションが居心地がいいということに、ふと気がつく、という程度のもの。
この小説は、解決も出口も存在しない迷路の片隅に
自分の居場所らしきものを、見つけることができるかどうか、そんな話のように思える。
しかし映画のサイトを見ると、「かつてないラブストーリー」とあり、
しばし、そうなのだろうかと考えてはみたが、
これをラブストーリーと呼ぶかどうかは、私にはよく分からなかった。
小説を読みながら、どういうキャスティングなのだろうと考えていたのだが、
幸夫役が本木雅弘、陽一役が竹原ピストル、ということを知り
「おおそうか、竹原ピストルか!」と、納得した。
本木雅弘は、どうなんだろうという感じであるが、そのうち映画も観てみたい。
ユーモラスな人間ドラマの裏にある、死の気配。 「秋日和」
1960年 日本
監督:小津安二郎
出演:原節子、司葉子、佐田啓二、佐分利信、岡田茉莉子
※ネタバレ有り
小津が描くのは、親からこどもへと家族がつながっていく物語。
そこでの、ちょっとした行き違いや変わっていくことへの畏れ。
ある部分を取り出せば、家族の崩壊かもしれないし
それは同時に新しい家族が生まれるということかもしれない。
本作も、そんな小津の世界が描かれる。
夫に先立たれた母親と、
その母親を残して嫁に行けるかという娘の物語。
母親を原節子、娘を司葉子が演じている。
亡くなった夫の悪友連中は、24歳になる娘を心配し、
なんとか心残りなく嫁にやろうといろいろ画策する。
娘に出来のいい部下を紹介したり、それでも娘が母親を気にしているとみるや
母親に悪友の一人をくっつけようとしたり、そこに岡田茉莉子演じる娘の友人も絡み、さまざまな企みが、ユーモラスなコメディタッチで描かれていく。
最後には、娘は紹介された男性と結婚することになるのだが、
母親は、再婚をせずに一人で暮らすという決断をする。
この小津の作った世界は、思いやりと愛情にあふれている。
誰一人、悪人がでてこない。夫の悪友三人組も軽口ばかりだが、その根底には思いやりがある。娘の友人もしかりだし、娘も母親もお互いのことを考えている。
しかし、にもかかわらず、この映画には死の気配が立ちこめている。
既に亡くなっている夫の不在や、原節子が纏っている暗さ。
最後に死ぬときは誰でも一人なのだ、というあきらめのようなもの。
その孤独は自明の理であるし、なにかで解決できることでもない。
そんな解決できないことを抱えながら
生きていくということの意味を小津映画は考えさせる。
思いやりを持つということは解決ではないが
そういうことで、なんやかやと、あがいてドタバタするのが人間なのだと。
全編が小津の美学によってコントロールされ、
ローンアングルはもちろんなのだが、
画面が縦の線によって、遮られ分断される構図が印象に残る。
それは、最初の寺の法事のシーンの柱からはじまり、
飲み屋の路地、窓、会社の壁などなど、徹底している。
この、あえてせばめられた画角というか、
レイヤー構造が様式美の中に奥行きとリアル感を生んでいるように思う。